大田区民オペラ「ノルマ」〜なかなか難しいもんだ〜

土日、大田区民オペラ合唱団の「ノルマ」が終了。色々と考えさせられることが多かった舞台でした。つらつらと書き並べてみます。

まずは自分自身のパフォーマンスのこと。かなり熱い芝居をして、合唱団に対する司令塔の一つのような形で機能していたのだけど、合唱団を引っ張ろうとするあまりに、その色気が強く出すぎたみたいです。観客として見ていた女房からは、「確かに目立っていたけど、どれも『悪目立ち』。決して美しい演技とはいえなかったよ」と厳しいご意見をいただきました。もっと自分の動きや演技を整理すればよかったのだけど、自分の所作のチェックをきちんとしないままに、合唱団へのキュー出しや、ソリストとのコミュニケーションの先頭に立ってしまったので、一人だけ浮いた感じになっちゃった。所作もこちゃこちゃしているし、毎回の課題になっている姿勢も悪く、全体に決して洗練された演技ではなかったようで、今後の課題ばっかりが残る、あんまり思い出したくない舞台の一つになっちゃいました。合唱団の皆さんや、演出の方々には、ほんとにご迷惑をおかけしました。次の舞台ではもう少しなんとかしますんで、今後ともよろしくお願いします。ぐすん。

三浦安浩さんの演出で芝居をするのは初めてだったんですが、かなり苦労されたようです。今回、後述するように、一種の「スターシステム」として作り上げた舞台だったために、直前になってかなり演出に変更が出ました。当初三浦さんが目指していたものや、主張したかったテーマが、ちょっとボケてしまったかもなぁ・・・という気もする。

多分、若手演出家にとって、市民オペラというのは自分の腕を試す絶好の舞台だと思うのです。市民オペラのいい点というのは、母体となる合唱団やオーケストラが、1年とか2年といった長い時間をかけてその楽曲に取り組み、その中で、楽曲への理解や世界観をじっくり醸成していく手作り感。その手作りの中に、演出家やソリストも参加していくことで、演出家が描き出したい世界を出演者にしっかり「落とし込む」時間も取れる。加えて、そういう市民たちには、舞台をいくつも重ねたプロの持つ先入観がない。だから、かなり思い切った斬新な演出をしても、それをありのままに受け入れる柔軟性がある。逆に言えば、その斬新さが「?」となったとしても、否定する人はいないわけで、自由にできるからこその危険性もあるわけですけど、でも、市民オペラで実験的な舞台作ったからって、そんなにブーイング食らうわけじゃないし、ほんとに思い切っていろんなことができる場だと思う。

でも、「スターシステム」のような形で、合わせの時間があまり取れない大御所をソリストに迎えると、そういう斬新な演出や様々な仕掛けを全体に「落とし込む」時間が絶対的に不足する。結果として、かなり大きな演出上のカットが、本番直前になって加えられてしまいました。それでも、完成した舞台は、非常に端整にまとまったとても美しい舞台で、特に岩のパネルを効果的に使った舞台転換の美しさとドラマとの同調は見事でした。

以前助演で出演させてもらった「さいたまオペラ」でも、子供たちとの共演があり、とても楽しかったのですけど、今回も、5人の子供たちとの共演が本当に楽しかった。うちの娘もみんなと仲良しになれて、お手紙までもらって感激。子供の演技、というのは本当に、いやらしい自己主張もなければ、ヘンな癖もなく、実に自然。そんな自然な子供たちの演技のおかげで、ノルマの苦悩や、ドルイド教徒たちの悲劇がさらに際立って、全体の感動を高めていたと思います。子供と動物ってのは最終兵器だっていうけど、ほんとだよねぇ。

しかし、今回の舞台の最終兵器は何と言っても、林康子さんでした。舞台上に立った瞬間に、共演者からオーケストラから、全聴衆一人残らず、自分の支配下におさめてしまう圧倒的なオーラ。

大田区民オペラ、という「市民オペラ」の今までの作り方の枠で言えば、土曜日のキャストの舞台の方が、市民オペラらしかったと思います。お忙しい中、練習に何度も足を運んでくださるソリストの皆さんたち。練習会場から、ソリストと合唱団員、スタッフの間に一体感が生まれ、その一体感から生じる密な空間。土曜日の舞台には確かにそれがあった。スターなのに本当に気さくな吉田恭子さんの輪郭のくっきりした鮮やかなノルマや、村上敏明さんの素晴らしいポリオーネの熱唱があったとしても、合唱団員がソリスト支配下に置かれてしまうような感覚、というのはあまり感じませんでした。だからといって馴れ合いだったわけではなく、土曜日の舞台も、本当に質の高い舞台だったと思います。

でも、日曜日の舞台は、完全に別物でした。日曜日の「ノルマ」は、圧倒的に「林康子さんのノルマ」だった。声の衰えや、コントロールの甘いところがなかったとは言わないけれど、舞台上の存在感と所作の見事さ、ここぞ、という部分で現れる深い含蓄を含んだ表現と、それを支える円熟の歌唱技術。観客として見ていた女房は、「歌いまわし・節回しというのは、一度きちんと身についてしまえば、年齢とは関係なしに表現できるものなんだねぇ」と感心しきりでした。特に、2幕の冒頭で子供たちに向かって剣を振り上げるシーンは、激しい感情の動きを、ドラマティックなフォルテッシモと完璧にコントロールされたピアニッシモで歌いきった感動的なシーンで、子供たちの巧まざる演技と相俟って、舞台袖で見ていて思わず目頭が熱くなってしまった。

終幕のポリオーネとの二重唱は、ノルマってのはベルカントオペラではなくて、ヴェリズモだったのか?と思わせるような凄まじい気迫。フィナーレに向かって合唱も加わり、どこまでも音が厚くなっていく過程では、「Tuttiになればなるほど、林康子さんの声がその中に埋もれていかない。逆にその上に乗って、どんどん輝きを増してくるんだ」と、女房が驚愕していました。幾層にも重なった声と音の上に、さらに林康子さんの声が君臨していくような。まさに、ノルマが牽引する圧倒的なフィナーレ。

こういうフィナーレは、土曜日の舞台のような、普通の「市民オペラ」の舞台では生まれてこない気がします。正直、林康子さんとの合わせの時間はとても限られていて、しかも、GPになるまで、林康子さんも夫君のピリウィッチさんも、きちんとした暗譜ができずに苦闘されていました。演出の段取りもかなり違っており、合唱団としては正直、「何が起こるか分からない」不安を抱えての舞台でした。そういう意味で、「市民オペラ」らしい、出演者全体が信頼感で結ばれた舞台とは決していえない状態だったと思う。それを本番では全く破綻なくまとめてしまう集中力には、全く脱帽の一言です。

どっちが「いい舞台」なの?と言えば、それは賛否あると思います。舞台としての質、という意味で言えば、林康子さんの圧倒的な存在感が全体を引っ張って、確実に数段上のレベルのパフォーマンスを見せた日曜日の舞台と比べれば、土曜日の舞台は、「こじんまりとまとまっていた」、という評価になってしまうかもしれない。でも出演者とすれば、あるいは、「市民オペラ」を作っていく立場からすれば、一緒にモノを作っていく一体感のないままに、本番直前にちょっとだけ練習に参加してきたスターの存在感に依存する(もっと悪い言葉で言えば、「ありがたがる」)形で成立した日曜日の舞台が、「自分たちの舞台」として実感できるかしら・・・といえば、少し違うかもしれない。

そこに「市民オペラ」という表現形態の限界があるのかもしれない。逆に言えば、全体を引っ張っていける素晴らしいオーラを持ったスターが、市民オペラのような手作りの現場にもっと時間を割いてくれる、というのが理想なんでしょうけどね。でも、エキストラで出演された若い歌い手さんも、「結局、いい歌い手ってのはみんな忙しいんですよね・・・」とおっしゃっていました。実際には本当に難しいこと。

全員がソリストであり、全員が合唱団員でもある、という、スターシステムの対極にある「ガレリア座」という所で活動してきた私にとって、ある意味そういう「手作りの舞台」の持っている一つの限界を見せ付けられたような気もします。逆に、スターシステムの持つ限界も見たわけですけど。そういう意味で、自分のパフォーマンスよりも、舞台の運営やオペラ制作の難しさの方を実感した舞台でした。というか、自分のパフォーマンスがあんまりよくなかったから、それは早く忘れてしまいたい、という気持ちもあるのかもしれんが。けけけ。

共演させていただいた素晴らしいソリストの皆様、一杯の笑顔をくれた子供たち、知的でユーモアたっぷりの素晴らしい指揮者、森口真司さん、副指揮者の阿部さん、ガレリア・フィル演奏会に続いてお世話になった副指揮者の鈴木さん、熱血演出家の三浦安浩さん、とってもお世話になったキュートな演出助手の伊奈山明子さん、その他のスタッフの皆さん、大田区民オペラ合唱団の皆さん、そして何よりも、毎度ご迷惑をかけっぱなしの山口悠紀子先生、俊彦先生のお二人に、本当にありがとうございました。もちろん、練習に何度もつき合わせてしまったうちの娘と、本番を見に来てくれた我が女房どもにも、感謝感謝。

また一つ、円熟の表現に触れることができた、素晴らしい舞台が終わりました。色々と反省はあったけど、これを、今後の自分のパフォーマンスや、舞台づくりに生かしていければな、と思います。舞台っていいなぁ。本当にいいなぁ。