カルメン本番終了〜伊藤明子演出読み解き〜

埼玉オペラ協会の「カルメン」が終了しました。今回は、助演、という、ある意味第三者的な目で舞台を見ることができる立場だったこともあり、公演に関わったみなさん、ソリストの方々、合唱陣の皆さん、裏方の皆さん、一人ひとりの仕事ぶり、舞台への関わり方を見ながら、プロの仕事のそつのなさ、集中力の高さに、たくさんのことを勉強させていただきました。この機会を下さった伊藤明子さんに、本当に感謝したいと思います。ありがとうございました。

ソリストの方々の熱演や、裏方の皆さん一人ひとりへの感想や感謝を書き始めるとキリがないので、この日記では、やっぱりうならされた伊藤明子演出について、面白いなぁ、と思ったことを書き連ねてみたいと思います。

カルメン」という素材は、モーツァルトの諸作品同様、極めて普遍的な素材だし、だからこそ、多様なアプローチを可能にする素材、という気がします。以前TVでちらっとみたバレエの舞台では、カルメンは銀行に勤めるOLで、パソコンから顧客情報を盗み取って荒稼ぎをしている、という設定でした。また、神田慶一さんが主催されている「青いサカナ団」の公演では、舞台を女子高校に設定して、ホセはそこに赴任してきた新任教師、カルメンは妖艶な不良女生徒、という、ほとんど「高校教師」の世界に置き換えた舞台だったそうです。こういう多様な読み替えを可能にする、非常に普遍的な男女のドラマなんですね。

伊藤明子さんの演出は、ジプシーという被差別民族であり、「女性」という抑圧された性に属する、という二重の抑圧を受けながら、その抑圧から解放され、「自由」を勝ち取る戦士としての「カルメン」を表現しようとされたように思いました。舞台設定を大幅に変更するのではなくて、あくまで、ジプシーという存在が抑圧されている「スペイン」という状況にこだわる。そのこだわりから、スペインにおいて、ジプシーへの抑圧が極めて先鋭的に現われた時期に場面を設定する。それが、冒頭の字幕で明確に、「1992年 セヴィリア」と明示される。

伊藤さんから聞いた話で、ちゃんとファクトの裏取りをしていないんですが、この1992年という年、セヴィリアで万博が開催された年だそうです。この年、スペイン政府は、万博に備え、観光客を狙った窃盗などを繰り返すジプシーたちを、強制的に特定の居留地に抑留する、という政策をとったそうです。そういう史実を知らなくても、冒頭、迷彩服を着た兵士たちが舞台にたむろする瞬間から、何かしら自由を抑圧する権力のようなものが舞台上に表現される。

でも、そういう場面は、ある意味、現代の我々からも理解しにくい、1992年のスペインの一情景だし、我々の常識にあるオリジナルの「カルメン」にも存在していない設定。観客が、そういう設定を無理なく受け入れるためには、観客の視点を代理する存在が必要。観客が自分と同化させながら、なんだか笑っちゃうような道化た芝居をして、観客の緊張をほぐして舞台に入り込みやすくする存在があるといい。ということで登場するのが、やけに場違いな「日本人観光客」という存在。

この「日本人観光客」というのを、私を含めた4人の助演で演じたのですが、とにかく、ある意味カリカチュアライズされた、誇張した「典型的日本人観光客」というのを、徹底的にコミカルに演じることを求められました。それは、もともとのビゼーのオペラコミック版の持っていたコミカルな要素を復活させたい、という意図。

こういう所が、伊藤明子さんの演出の特徴だと思います。舞台上に出てくる道具立てが、異なる時代設定であったり、あるいはもともとなかった設定を持ち込んできたり、という、オリジナルの発想からきていても、その後ろには徹底的な原典と楽譜の読み込みがある。メリメの原作や、ビゼーの台本、楽譜をきちんと読み込んで、その背景を充分に理解した上で、そのオペラの本質的・普遍的なテーマに対して、大胆に自分のイメージを膨らませていく。ただ膨らませるだけではなくて、常に、そのイメージが原典の意図から外れていないかをチェックしている。アプローチがあくまで「原典主義」であるが故に、基本の軸がぶれない。

カルメンが、様々な抑圧から自由になろうとする存在であることは、他の場面でも象徴的に表現されます。2幕のパスティアの酒場のシーンでの冒頭、カルメンは、仲間たちが稼いだ金を取り上げ、ロウソクの炎で燃やしてしまいます。燃え上がる炎は視覚的にも強烈ですが、紙幣を燃やすことで、カルメンが、金銭や物欲という世俗の欲求からも自由であることが表現される。2幕のラストにかけて、抑圧された精神の象徴であるホセの耳元で、あるいは合唱も含めた絶叫として歌われる「自由!」という単語は、音楽的にも特別の意味を持って表現されていました。また、3幕のラスト、カルメンは、自分の死を予告するカードを捨てて立ち去ります。自らの死の運命からすら自由であろうとする、自分の運命は自分で決めていこうとする強い意志が、そこで表現されます。

万物から自由であろうとするカルメンの戦いのクライマックスが、4幕のホセとの対決となるわけですが、ここで、伊藤さんは、ホセとカルメンの対決を、闘牛士と闘牛の対決のように見立てます。最初、カルメン闘牛士で、ホセが闘牛のように、カルメンの言葉の矢の一つ一つに傷つくホセが、舞台上をのた打ち回る。しかし、伊藤さんは、「いつのまにか、この関係が逆転してしまうんだ。」とおっしゃいます。ホセがナイフを抜いた瞬間、カルメンは、ホセ=ナイフ=権力が、女性=ジプシー=カルメンを抑圧している構造に気付く。そしてその構造が、観客の前で闘牛士が牛をなぶりごろしにする闘牛という構造とシンクロすることに気付く。なんてことだ。自分が闘牛士だったと思っていたのに、実は自分自身が殺される牛だったのか。その絶望の中でも、カルメンは、「殺される」という屈辱、権力への屈従を是としない。彼女は、自分からホセの構えるナイフに飛び込み、自ら死を選ぶ。あんたに私を殺せやしない。私を殺せるのは、私自身だけなんだ、と宣言するかのように。「カルメンは自由になるために死を選ぶんだよ」。

カルメンの死の瞬間、舞台奥に現われる日蝕のイメージは、太陽という、支配者=権力=男性を象徴するものからすら自由になりたいという、カルメンの祈りを、月=女性の象徴が影となってかなえたかのように、神々しく輝く。ホセの存在はカルメンの背後から闇に消え、カルメンの魂が永遠の自由に旅立っていく姿を焼き付けて、幕は閉じるのです。

限られた予算の中で、黒を基調にしたパネルを組み合わせたシンプル極まりない舞台装置。でもそのパネルが、ある時は工場に、ある時は穴倉のような酒場の壁に、山並みに、そして闘牛場に、と変貌していく。極めつけは2幕。酒場でカルメンをかきくどくホセのドラマは、下手側から差し込む照明によって、上手側の壁に大きなシルエットを作る。演じる歌手のシルエットが壁に映し出されることで、ドラマを正面からも、横からも見ているような、そんな多層的な視点で男女の普遍的なドラマを見ることができる。演出家・舞台装置・照明のアイデアと技術が結集した、この場面の美しさ、緊張感には参りました。