「母の影」〜圧倒的な両親〜

北杜夫さん、という作家は、思春期の頃に随分読んだ作家さんです。自分とちょっと名前が似ていたので親しみがあった、というのもそうだけど、初期の感傷的な短編や、重量感のある長編小説の中にある濃厚なロマンティシズムにすっかり心酔した時期がありました。随分長いこと遠ざかっていたのだけど、図書館に行って、何を読むべかな、と思った時に、久しぶりに北杜夫さんを読んでみるかな、と手に取ったのが、「母の影」。

以前、北杜夫さんが、お父様の斉藤茂吉についての評伝を完結された時、お母様の輝子さんの奔放な生き方に、かなり大胆に触れている、という記事をどこかで読んだことがありました。その記憶があったので、北杜夫さんが、お母様のことをどう語っているのかな、という、一種ワイドショー的な興味が湧いたのは事実。一方で、思春期の頃に親しんだ北杜夫さんの諸作品の中で、常に不思議な存在感で描かれていたお母様の輝子さんのことが記憶に上ったのも事実です。晩年、世界中を飛び回って、痛快お婆ちゃん、などと呼ばれた、あまりにも魅力的なおばあちゃんだった輝子さん。北杜夫さんは、よくエッセーや自伝的小説の中で、このお母様のことを取り上げていらっしゃって、「私はもうすぐ死にますから死ぬ前にxxに旅行します」が口癖、というエピソードは、どこかで読んだ記憶がありました。

そんな、一種ワイドショー的な見方や、一人の女傑の痛快な生き様を息子の視点で描いた文章、なんてのを、この「母の影」に期待すると、ひどい肩透かしを食います。確かに、茂吉さんと輝子さんの不仲や、いわゆる「ダンスホール事件」というスキャンダルについて、かなり赤裸々な描写があります。でもそこに描かれているのはむしろ、狭量、とまで言ってもいいほどに厳格で繊細な茂吉と、奔放でいながら独自の人生哲学と美学を持った輝子さん、という、相容れないながらもあまりにも魅力的な両親に対する、深い深い愛情の記録。茂吉と輝子の別居のために、幼い頃、常にどこか手の届かない存在だった母親に対する切ない憧憬。そんな母親は、時折訪れる子供たちを、洗練された贅沢な愛情で思う存分もてなす。それがさらに母親への愛情と憧れを募らせる。それに対比されるように、歌人斉藤茂吉の文学への共感と尊敬が語られ、「母の影」というタイトルとは別に、斉藤茂吉の人間像もくっきりと刻み込まれている。

前半、終戦前後の思春期の思い出を描いた連作は、母への憧れや変転する環境に対する心の動きなどを繊細に描いて、「楡家の人々」や「幽霊」などの純文学作品の場面を彷彿とさせる。後半、躁状態になった杜夫さんご夫妻と輝子さんの珍道中を描いた作品などは、北杜夫さんのユーモア・エッセイの連作につながる楽しい作品。その中に、元気だと思っていた母親の老いに胸衝かれるエピソードなどが混じり、連作としての多様性だけでなく、肉親に対する複雑な愛情の様々な揺れ動きが、万華鏡のように多彩な形の断片で描きこまれていく。

今回、自分が思春期に、北杜夫文学にあれだけのめりこんだのはなぜなんだろう、という興味もあって、そういう分析も加えながら読んでみました。北杜夫さんの文章というのは、美しい情景や繊細な感情の動きを描き出す場合であっても、決して作為的でなく、あくまで平易で自然なんですね。医学者らしい客観的な描写と、感傷的な視点が矛盾なく同居していて、そのあたりが、中学生くらいの自分の心をつかんだのかもな、と思いながら読みました。

最後まで自分の生き様を変えることなく、生涯を全うした輝子さんの大往生が淡々と語られた後で、輝子さんが残した形見のスーツケースを前に、杜夫さんが慟哭する、というシーンには、思わず心揺さぶられるものがあります。北杜夫の文学において、斉藤茂吉と斉藤輝子という、一種「圧倒的」な両親の存在がどれほど大きな影響を与えたか、ということについて、再認識させられる一冊でした。北杜夫さんの小説もちょっと読み返してみようかなぁ。