「黒い家」〜女優で読む〜

「読んでから見るか、見てから読むか」という角川映画の有名なキャッチコピーがありました。映画とその原作・・・というのはその点、一種の緊張関係で結ばれていますよね。文字情報というのは画像情報に比べて情報量が格段に落ちるので、その欠落した部分を読者の想像力で補っていくしかない。映画はその欠落した情報を映像情報で補ってくれる代わりに、原作者の頭の中にだけあったイメージとの埋めがたい落差を生む。

漫画を原作とする映画やドラマでは、同じ画像情報を持っている、という点で、ある程度のすり合わせが可能。「動物のお医者さん」とか、「のだめカンタービレ」を見ても、原作へのこだわりを映像情報である程度埋めることができる。それでも、漫画原作の映像作品で、「イメージじゃない!」という評論をよく聞きます。小説となると、さらにコトは面倒になる。

貴志祐介さんの「黒い家」を図書館から借り出したのは、よくできたホラー小説だ、という評判も勿論でしたが、なんといっても、大竹しのぶさんが殺人鬼を演じた映画の宣伝のイメージが強烈だったから。映画そのものを見ていないのだけど、「あの大竹しのぶが殺人鬼を演じている」という文章を見ただけで、なんだかワクワクしてしまう。大竹さんというのはそういう魅力を持った女優さんだと思います。スティーブン・キングの「ミザリー」の舞台で、アニーを白石加代子さんが演じた、と聞いただけで、背筋がぞわぞわしてくる感覚にちょっと似ている。まぁ白石加代子さんの場合、存在自体がホラーなので(って、失礼な)、納得感はあっても意外性はないのだけど、大竹さんの場合、納得感と意外性が共存してしまうから面白いよね。演技の幅が無限大、という感じがする。従い、小説を読み進めると、大竹しのぶさんがこのシーンをどう演じたんだろう、という、筋立てとは別の興味が常に湧いてくる。そういう意味では、森田芳光監督のキャスティングが成功していた、ということなんだろうなぁ。(「キッチン」のキャスティングは最低だったけど)果たしてそれが原作
者にとって望ましい読まれ方か、という別の問題も生じるけどね。

で、肝心の小説なんですけど、まさにスティーブン・キングの「ミザリー」にすごく似た読後感でした。爽快感すら感じる不愉快さ。完全に理解不能の異常心理。貴志さんの本は、「ISOLA」を読んでいるのだけど、「ISOLA」にあったかなり強引なストーリー展開が後退して、「ISOLA」の美点だった、粘っこい、読者をものすごくイライラさせる不愉快な恐怖感とサスペンスの盛り上げ方が前面に出ている。舞台になる京都弁のねちっこさも相俟って、実に怖い小説に仕上がっています。ホラー大賞受賞も納得。

時代の変化と環境の悪化により、「サイコパス」が多数出現し、人間生活を脅かしているのだ、という感覚には、薄ら寒い共感を覚えます。菰田夫婦の存在が極めて異常で、完全に理解不能な存在でありながら、強烈なリアリティを持っているのは、貴志さんのねちっこい描写のおかげもある。でも何と言っても、最近の社会の中で、こういう異常な人々が増えてきている、という実感の助けが大きいでしょう。菰田夫婦を連想させる「キレた」人々の凶悪犯罪のニュースを見るたびに感じる、なんとも言えない不愉快さを、分かりやすい形で具体化したエンターテイメント小説。幽霊よりも超常現象よりも、生身の人間が一番怖い。そしてこれを演じきってしまう大竹しのぶも十二分に怖い。