命が教えてくれたこと

台風が過ぎて、夏らしい日差しが戻ってきましたね。我が家でも、娘と女房で、「市営プールに一度行ってみようね」と言い合っている。そしたら娘が、「しえいプール、だいじょうぶかなぁ?」と不安そうな顔をする。例の、ふじみ野市の市営プールの事故のニュースで、不安になったらしい。大丈夫だよ、あの事故があったから、日本中のプールでみんな安全管理を徹底しているから、という話をしながら、

「あの女の子がね、自分の命と引き換えに、『こんなに危ないことがあるよ』って、みんなに教えてくれたんだよ」

という話をする。娘なりに納得してくれたみたいです。

今回の事故、とにかくずさん極まりない管理体制に非難が集中していますよね。でもその脇で、亡くなった戸丸瑛梨香さんのご遺族の出される色んなコメントの一つ一つが、ものすごく意味深く、心に沁みるコメントで、瑛梨香さんがどれだけご家族に愛されて育ったか、ご両親の嘆きがどれほど深いか、同じ年頃の娘を持つ者として、なんども涙を誘われました。中でも、お通夜の時に、お母様が書かれたというお手紙の抜粋を聞いた時には、一種の衝撃すら受けました。

「7年間だったけど幸せな毎日でした。小さい命を犠牲にしてまで伝えたいことは何だったのか、これから考えていきたいと思います。パパとママの間に生まれてきてくれてありがとう。愛してるよ、これからもずっと。」

あまりに無責任な、あまりにもずさんな運営体制の犠牲になった娘の死に直面して、恨みや怒りは当然あると思うのに、この文章にあるのは、瑛梨香ちゃんという存在が与えてくれた喜び、幸せに対する感謝の言葉と、彼女の存在が教えてくれたことに対する謙虚さ、そしてその不在と向き合っていかねばならない悲しみと覚悟。私が娘に、冒頭にあったような言い方をしたのは、この文章の印象があまりにも強烈だったからです。

先日、ちょっと年齢の若い方と一緒に話す機会があって、彼女が、「なんか、自分のやってることって何なんだろうって思って、死んじゃおかなぁ、なんて思ったりするんですよねぇ」とあっけらかんと笑いながら言っているのを聞いて、なんてこと言い出すんだ、と、ちょっとあっけに取られてしまいました。その時には、「そんなことないよ、君のやってることには意味があるんだから」という反論の仕方をしたんですけど、後から考えて、「そんなに簡単に『死んじゃお』って思っちゃうのって、何なのだろう?」と考えてしまった。

自分の命を、簡単に捨ててしまえる荷物みたいに感じてしまうっていうのは、ひょっとしたら最近の風潮なのかもしれません。練炭集団自殺なんかが未だに時々発生するご時勢ですし。でも、自分の命に執着できない人は、他人の命を大切にすることもできないんじゃないかなぁって思う。とっても気軽に口にされる「死んじゃおっかな」と言う言葉は、すごく容易に、「殺しちゃおっかな」という言葉に裏返る気がするんです。

どんな命にも意味がある。いかに不条理な死にみまわれたとしても、その命が存在したこと、そしてその命が失われたという事実は決して消えない。そして残された人々にとって、その存在とその不在には、必ず意味があるんです。人を殺すな、自分も死ぬな。当たり前のことなのに、それがなんだか、色んな局面で軽んじられている気がしてしょうがない。

お母様に、こんなに人の心を打つ文章を書かせた、瑛梨香ちゃんという女の子。TVで流れたその笑顔は実に明るくて、誰もが愛さずにはいられないような、本当に愛くるしいお子さんでした。瑛梨香ちゃんのご遺族には、心からお悔やみを申し上げます。瑛梨香ちゃんがどんなに素晴らしい女の子だったか、どんなにご両親の愛情に包まれて育ったか、お母様のあの手紙に込められた、彼女の命の実在を、私は決して忘れないと思います。