「ラディゲの死」〜言語と肉体のバランス〜

三島由紀夫という人の本は、「金閣寺」「潮騒」「音楽」「仮面の告白」くらいを読んだだけかな。近代能楽集も読みました。非常に知的で緻密に組み上げられた、論文のような小説を書く人、という印象がありました。

北杜夫に引き続き、ちょっと古典的な名作や美文に触れてみたい、と思い、短編集の「ラディゲの死」を図書館で借り出し。美文を楽しむと同時に、三島由紀夫という人の文学に対する葛藤のようなものが見えてくる。

「旅の墓碑銘」や「施餓鬼舟」で明らかにされるのは、小説家、という生き物は、言語という観念で織り上げられた観念世界の中で生き抜くべきか、それとも、現実世界の中に生きるべきか、という葛藤。それはある意味、先日読了した「ハルモニア」で描かれた、芸術・言語・観念という神の秩序の世界と、現実の人間世界の間で揺れ動く精神、という、芸術という分野で語り続けられる一種永遠のテーマ。「ラディゲの死」では、現実世界の中では乱雑と混沌の中に沈んでいきながら、言語という観念の世界では、ある意味完成された調和の世界で生きる、コクトーとラディゲの姿が描かれる。

そう思うと、三島由紀夫、という人の人生そのものが、「言語=観念」と「現実=肉体」の危ういバランスの分水嶺を際どく綱渡りし続けていたことに思い至る。「言語=観念」だけで描かれる世界の美しさに没頭した少年時代から青年時代、そこから、その美しき概念に現実を合致させていくために、最も手近な現実=自分自身の肉体を改造していった壮年期。そして肉体からさらに社会そのものを、自らの概念に合致させていこうとし、結果的にその自らの概念に殉じた割腹自決まで。

それを、頭でっかちのインテリが頭の中だけで考えた概念で現実を変えようとして自滅した、と簡単に総括してしまうことは可能。でも、そう簡単に総括してしまうには、三島の操る言語はあまりにも美しく甘美で、その言語によって怜悧に切り取られる現実の醜さと対比されて、さらにその輝きを増す。浜辺に揺れる遠い施餓鬼舟の明りのように。胸のざわめきをそのまま伝えてくる門外の牛車の車輪の響きのように。しかし、「みのもの月」のような作品を17歳で書いてしまうってのは、ホンモノの天才だったんですねぇ、この人は。

三島由紀夫、という存在はあまりにも巨大すぎるし、私にとって「同時代作家」というわけでもないので、語るには手に余る存在、と最初から投げ出してしまうしかない。それはそうなんだけど、三島文学の一つの側面が、この「言語=観念と現実=肉体の葛藤」という所にあった、というのを再認識する意味で、中々面白い本でした。

ただ、個人的には、あまり三島文学にのめりこんでいく気にはなれないんですね。素晴らしいとは思うのだけど、どこかで、「言語」という分厚い眼鏡を通してみた歪んだ世界を、さらに「言語」という観念で描写した観念的な作品、という感じがしてしまう。その観念はあまりに巧緻で美しいのだけど、自分はどうにも俗物なので、どこかでもっと即物的な表現に惹かれてしまう。

もちろん、小説の道具が言語である以上、全ての小説が描き出す「現実」は、現実から遊離した「仮想現実」であることは確か。いかに即物的な表現であったとしても、言語という手段で描かれた瞬間に、それは現実であることを止めてしまう。そしてその言語という仮想現実が、現実世界そのものにも影響を与え、現実自体を変貌させていく相互作用・・・そういう小説という手段、言語というもの自体のもつ現実との関係性に対して、自分の知力を振り絞って正面から対峙し続けたのが、三島由紀夫、という人だったのかな、という気がします。