「舞姫通信」〜NHKっぽいよね〜

重松清さん、という作家は、「その日のまえに」という本を偶然手にして、それで初めて知りました。ちょっとあざとさも感じるけど、うまい作家だな、という感想。もう1つ2つ読んでみるか、と思い、図書館で手に取ったのが、「舞姫通信」。

その日のまえに」の時にも思ったのだけど、ジュブナイルっぽい感じがします。青臭ささえ感じるくらいに、まっすぐに、人間の「生死」という所に切り込もうとする。でも、ただまっすぐなわけじゃなく、文体も物語の展開も職人的にうまい。そういう直球勝負のまっすぐさと、ちょっと矛盾するような技術の確かさの組み合わせが、どこかしら「NHKっぽい」という印象につながるんだよね。彼がNHKの音楽コンクールで詩を書いた、というのも、ものすごく納得。

番組制作や構成の見事さという、職人的なうまさと、主題に対して斜に構えるのではなくって、まっすぐに切り込んでいく、(というか、公共放送として、そういう切り込み方しか許されていない)NHK。そのNHKのスタンスと、重松清さんの小説世界がなんだか重なって見えちゃうんだなぁ。そういう感想を持ってしまう私自身が、薄汚れた中年男で、何でも斜に構えて見てしまうからかもしれないけど。

で、この本で、重松さんが、直球で捕らえようとしたのは、「自殺」という死に方。そういう「自ら選んだ死」にどうしようもなく惹かれてしまう青少年の心。「自殺」を、一つの権利として、「自分たちはいつでも、自ら死を選ぶことができるのだ」と主張する青少年に、反論することができない年長者が、「それでも、少しでもその死の瞬間を未来へ延ばしてほしい、なぜなら、僕たちは君たちを愛しているのだから」という、「無条件の愛」でその苦悩を包み込んでいこうとする。その結末に向けて、いささか強引とも言える腕力と、NHK的直球勝負で持っていく、その強引さがかなり鼻につく。一人ひとりの登場人物、特に、語り手と、語り手の双子の兄と、その兄の恋人、という三角関係の間の感情の流れが唐突で、どこか物足りない感じが残ってしまった。

人間いかに生きるべきか、という命題は、結局、人間いかに死ぬべきか、という命題と一致してしまう、という点において、この本の主題と、同じ時に読んだ、幸田文の「闘」とは共通している。そういう意味でも、面白い読み合わせになったのだけど、「舞姫通信」の中で描かれる若者の死の薄っぺらさと、「闘」の中で描かれる死の重厚さの違いはなんだろう。人間が生物としての生命力を失いつつある、という流れに沿って、「死」すらもその重さを変えつつあるんだろうか。何度もこの本の中で語られる、「生きることの意味が見つからない」という言葉にも、そういう印象を強く感じる。

舞姫通信」の中の若者の苦悩は、理解はできるけれども共感はできない。それは、そこで語られる若者の生や死が、あまりに薄っぺらいものであることへの反感もある。でも逆に、我々は、こういった若者の苦悩に共感してはいけない世代になってしまったんだろうな、と思います。そこに我々の世代なりの苦悩がある。すなわち、「生きることの意味が見つからない」と呟く若者に対して、「生きることの意味とは、こういうことなんだよ」と伝えることができない苦悩。重松さんのように、「キミは生きるべきなんだ、なぜなら、僕らは君たちを愛しているから」と伝え続けることも一つの解ではあるのだけど、その愛すら拒否してしまう若者たちに、我々は何を伝えればいいのか。

「闘」の中で、一つの生を見事に全うする左官屋のおじさんの話が出てきます。彼はお医者さんに、壁を塗るにあたって、いかに「完全に平らにするか」というのが生涯の課題だ、と語る。長い長い修行の果てに、どの壁も平らに塗れる技術を身につけてしまうと、今度は、いかに「微妙な角度をつけるか」という技を身につける段階に入る、という話を、おじさんは訥々と語るのです。完全な平面ではなく、微妙な角度や微妙な変化が、壁の表情を生き生きと見せる。その感覚を身につけるまで、ひたすら完全な平面を追い求めていく。その道は常に探求されるべき道で、終わりがない。だからこそ、面白い。

「生きる意味」というのは、実は、完全な平面をただひたすらに追い求めていく、という、恐ろしく単調な反復作業の中にあって、その中に無限の意味を見出すことができるかどうか、にかかっているのかもしれない。単調で無意味(に思える)な作業の繰り返しの中で、突然見えてくる次のレベルの技術がある。そういうブレークスルーの時に感じる充実感こそが生きる意味であり、そういうブレークスルーは、全ての仕事、全ての作業の中に無限に存在しているのかもしれない。だとすれば、実は、この世界の中のあらゆる仕事、あらゆるアプローチの中に、「生きる意味」は無限にあるはずなんです。

今の若者は、そういう単純作業の醍醐味を、「非人間的な重労働である」という理由で奪われてしまっているのかもしれません。単純作業を奪われた、ということだけでなく、他の局面でも、生きる意味を見つけにくい状況が作られてしまっている、という側面は否めないと思います。一人の子供の親としては、自分の子供に、ただひたすら地道な努力を続けていくことで、突然開けてくる次の地平があるんだ、ということを、事あるごとに伝えていくしかない。この世界に無限に存在している豊穣さに目を開かせること。その豊穣さを貪欲に探求していくことが、いかに楽しいか、ということに気づかせること。そういう豊かな意味世界が目の前に広がっているのに、それに気づかないまま、「生きる意味が見つからない」と呟いている若者に、我々の世代が共感することは許されないんだ、と思います。

逆に言えば、いかに親自身が、「生きること」を楽しみ、世界に意味を見出しているか、ということを、子供に自分で示すしかないんだけどね。子供は親の鏡、というけれど、子供の世界が荒廃していく、というのは、とりもなおさず、親の精神世界の荒廃を如実に表しているのだ、ということを認識しなければ。太宰治の「子供より親が大事」という言葉は、そういう文脈でも真実なのかもしれないなぁ。