健康診断

40過ぎたくらいから、会社の健康診断で、「医療機関での再検査が必要です」という値がたびたび出るようになりました。この夏に受けた健康診断でも、前立腺腫瘍マーカ(PSAってやつ)の値が「再検査が必要です」という値になって、会社の近くの診療所に行って再度採血してもらう。検査結果は「問題ないですね」ということだったのだけど、今度はすい臓の状態悪化を示す「血清アミラーゼ」という値が要注意値になって、「ちょっとお酒を控えてくださいね」なんて言われてしまいました。そんなに飲んでるわけじゃないんだけどなぁ。

体の色んな所が、自分の思うように動かなくなってくる。近くのものがぼやけて見える、膝が痛む、腰が痛む・・・加齢、というのは否応なしに自分の体を蝕んでくるんですけど、その結果として、いつ自分が死病に取りつかれるだろうか、という恐怖感が、年々強くなってきました。検査の結果がまた、そういう恐怖感を煽る。PSAマーカとか、既に前立腺癌の発見指標としては古くなっていて、多少数字が大きくても心配ない、なんて情報をネットで見つけてほっとしたり、検査結果に一喜一憂。それだけ、「死」というゴールが明確に見えてきた、ということなんでしょうね。

先日GAGの公演をやって、「南の島のティオ」の全話の朗読パフォーマンスを終了させるのに、10年かかるね(2年に1回のペースで2本ずつやって、10本の話があるんです)、なんて話を女房としていて、10年後といえば52歳じゃん、と、改めて愕然とする。自分が50歳過ぎのオッサンになる、なんて、どう考えても想像できない。でも今の自分を見直してみれば、明らかに42歳のオッサンである。そして次に考えることは、といえば、「52歳までちゃんと生きてるかなぁ」ということ。

人間いかに生きるべきか=人間いかに死ぬべきか、なんて偉そうなことを頭で考えて、文章で書いていても、いざ自分の目の前にゴールラインが見えてきたときに、どこまで平静にそのゴールを迎えられるだろうか、というのは別の話。会社の同僚の女性で、癌を宣告されて、抗癌剤と手術を組み合わせた治療で見事に克服して、職場復帰している女性がいます。ご本人の中では色んな葛藤があったのだろうけど、そういう表情は一切見せずに溌剌と働いている。いざ自分がその立場になった時、あれだけしっかりと前を向いて歩いていけるだろうか。

特に、私みたいに自己主張の強い人間は、自分が死んだ後に、どれだけ自分の存在が後世に残るだろう、ということが気になって仕方がない。そういう気持ちが、こういう文章を綴ったり、舞台表現に向かっていく一つの動機付けになっている。一人でも多くの人たちに幸せな時間を届けることで、自分が死んだ後も、その人の心の中に、私という個人の心のかけらがひっそり残っていられるように・・・ある意味、ものすごく傲慢なことなのだけど、少なくとも、死んだ後で、「あの人にはホントに不愉快な思いをさせられたよ」なんて言われないように、日々精進しなければ・・・