子供を産む、育てるということ

奈良で、妊婦さんをたらいまわしにした、というニュースが出ていて、またぞろマスコミが、医療のあり方を責める、という、白痴的ステレオタイプ型反応に陥っていますよね。今回の妊婦さんに、「かかりつけの医者がいなかった」という状態に対して、誰も疑問を感じない、というのが理解できない。妊娠3ヶ月ってわかってて、医者に行ってないって、どういうことさ?

これ以外にも、自分が妊娠していたことに気づかなくって、トイレで子供を産んで死なせてしまった女子高生の話とかもありましたし、最近流行りの「できちゃった婚」(こんなのが流行ってどうするんだ)にしてもそうなのだけど、「子供を産み、育てる」ということについての認識の低さに唖然とすることが、どうも最近多すぎる気がする。

結婚してない人は妊娠しちゃいけない。子供が欲しいのなら、結婚してから作ればいい。妊娠したのなら、お腹の子供の状態をきちんと把握するために、すぐに産婦人科に行って、母子手帳をもらわないといけない。お腹の中の子供は、ほっとけば育って出てくる、なんていうカンタンなものじゃなくって、様々なトラブルに見舞われる可能性が高い、脆弱な命なんです。そういう命を抱えている妊婦さんを、周囲も支えてあげないといけないけど、なによりも妊婦さん自身が、自分の体の中の目に見えない命のことを真剣に考えないといけない。であれば、かかりつけのお医者さんを持つのは当たり前のこと。

そういう「当たり前」のことができない若者たちの話を聞いていると、日本人という生物自体が、繁殖能力を失いつつあるのかもしれない、という気が時々します。動物園で飼われている多くの動物が、生殖能力を失って人工授精に頼っている。親は生まれた子供を育てることができず、子供は生まれた途端に、飼育係の手にゆだねられ、人工保育器の中で育てられる。その受渡しがうまくいかないと、親が子供を殺してしまうこともある。最近の日本人って、段々、そういう「動物園の動物」に近づいてきている気がするんだよねぇ。

生物の進化に与える精神の影響、という話を最近読んだことがあります。遺伝子と言うのは体内で常に活性化された状態にあって、常に変化しているもの。その遺伝子の変化を促すのは、「ストレス」なのではないか、という議論。一定の環境下に置かれた生物が、常に「ストレス」を感じ続けることで、遺伝子が、その「ストレス」を緩和する方向に変化していく。

先日受けた研修の中で、生物としての人間には、「パーソナルエリア」として確保したい、他人との距離感というのがある、という話が出ていました。自分の近くに他人が近づいてきた時に、どこまで近づいてきたら身の危険を感じるか、という距離。大体、手を広げた距離よりも内側に、見知らぬ人が入ってきたら、「危ない」という精神的なストレスがかかる。

とすれば、都会というのは、そういうストレスが常にかかり続けている場所。毎朝のラッシュアワーなんていうのは、まさに異常な環境なんですね。「パーソナルエリア」が完全に無視されて、他人が密着してくる。そうなると、その「他人」を、人間としてみるのではなく、「風景」として受け入れようとする「風景化」の現象が起きてくるわけだけど、その一方で、増えすぎた人間の数を減らしたい、これ以上人間を増やしたくない、という遺伝子の「意思」が働くのじゃないかしら。

子供を産み、育てること。産めよ増やせよ、という行動自体を、社会のストレスや、自分のストレスを増やす行動として、「悪である」と感じるように、種族のもつ遺伝子の「意思」が一致してきているのじゃないだろうか。自分の生活の自由度を縛る存在=ストレスとしての子供。人間の数が増えることによるストレスの増大。つまりは、日本人の遺伝子自体が、「子供=悪」という観念に染まりつつあるのじゃないだろうか。

種としての人間の存続、だの、日本人の存続、だの、少子化対策、だの、そんな大上段の話をするつもりはないんです。そうじゃなくって、単純に、子供ってのはとってもいいものです。子供がいることで、どれだけ精神的に癒されるか。子育ての中で、子供の成長を見守っていくことがどれほど楽しいことか。そういう子育ての楽しさ、嬉しさ、というのを素直に感じることができれば、もっと「子供を大切にする」社会、種族になっていけると思うのだけど・・・