トリノ王立歌劇場「椿姫」〜この人にしかできないヴィオレッタ〜

日本に一週間出張し、米国に帰ってまいりました。3ヶ月、というのは微妙な期間で、米国の生活にも慣れてきたけど、日本の生活がはるか過去のものになるには短すぎる。なので、住み慣れた家から通いなれた道を通って、行きなれた会社に通う、という感じ。でも意外と細かいところで変化を感じたりしたのだけど、それはまた別の機会に書くとして、今日は、短い滞在の間に女房と行った、トリノ歌劇場の「椿姫」のことを書きます。

指揮:ジャナンドレア・ノセダ
演出:ローラン・ペリ
ヴィオレッタ:ナタリー・デセイ
アルフレード:マシュー・ボレンザーニ
父ジェルモン:ローラン・ナウリ

という布陣。

なんといってもお目当ては、ナタリー・デセイだったわけですけど、女房ともども、うーむ、とうなってしまう。特に女房は、前日のフリットリのボエームを聞いていて、「イタリアオペラのプリマかくあるべき」という姿を聞いてしまった後なので、どうしてもデセイヴィオレッタを素直に受け取れないのだね。イタリアオペラのプリマ、特にヴェルディオペラのプリマとしてどうなのよ、と思ってしまう。

じゃあ、イタリアオペラのプリマってどうあるべきなのさ、と言えば、やはり、会場の隅から隅まで、床から天井から何もかもを鳴り響かせる声のパワーだと思うし、女房が聴いたフリットリはまさに、「会場全体をヴェルヴェットのように包み込み、隅々まであまねく鳴らす」理想的なミミだったそうな。同じボエームでムゼッタを歌った森麻季さんが、美しいのだけど、「聴衆が声を聴きに行こうと前のめりにならないといけない」のに対して、フリットリの声はこちらがもたれている椅子の背もたれまで揺るがすように響き、かつ優しく人を包み込む。女房は大興奮で、「フリットリはテバルディになれるかもしれん」と喚いておりました。よく意味が分からない。

で、デセイです。声、という意味で言えば、絶頂期のどこまでもどこまでも伸びていくクリアな高音は失われていて、響きも荒い。もちろん素晴らしい歌声なのだけど、会場を揺るがすようなパワーは期待できない。にもかかわらず、デセイが嬌声を上げて素っ頓狂なピンクのドレスで飛び出してきた途端、ヴィオレッタの哀しみ、ヴィオレッタの切なさが胸にいきなり迫ってくる、この説得力はなんだ。

デセイの盟友であるローラン・ペリの演出は、「天国と地獄」「美しきエレーヌ」などのオッフェンバック作品でおなじみなんですが、時代背景などは一切捨象して、非常に普遍的な人間ドラマを作り上げる演出家で、意外と奇をてらったことをせず、音楽を非常に大切にする演出家、という印象があります。その印象の通り、今回の椿姫も、ゼフィレッリの演出にも通じる非常にオーソドックスな楽曲解釈と、個性的なのに楽曲を邪魔しない抑制された演出で好感。ただ唯一好悪の分かれるところが、主人公ヴィオレッタの描き方。

ある意味、非常に「男性受けのする」ヴィオレッタだなぁ、というのが主たる感想で、簡単な言い方をしてしまえば、ひたすらか弱いのだね。自分というものを持たず、時代と自分の本能に流されて道を踏み外してしまい、あとはその運命から逃れられないままに孤独に死んでいく。その運命に精一杯抵抗しようとする力もか弱くて、父ジェルモンからの圧力に対しても最初から腰が引けている。そのか弱さと哀れさが、男性の保護本能をくすぐる感じ。

女房なんかは、「ヴィオレッタはもっと毅然としていて、もっとノーブルでいてほしい」と言います。高級娼婦、つまり貴族しか相手にしない娼婦だから、それなりのプライドと矜持があるはず。私の感覚でも、ヴィオレッタっていうのは吉原の一番人気の花魁さん、という印象があって、それが田舎のお大尽さんに身請けされるけど、生まれの卑しさを理由に離縁される、という歌舞伎の筋立てに読み替えているものだから、もっと高貴で凛としていてほしい、という思いはある。父ジェルモンからの詰問に対して背筋を伸ばして自分の主張をしっかりぶつける。衆人環視の中で侮辱されそうになっても、しっかり自分の足で立っている。そういうヴィオレッタ。

でも、「か弱い、本当に普通の女の子」としてのヴィオレッタを演じさせたら、デセイ以上の歌い手・演じ手はいない。そして何より驚嘆したのが、そのデセイの繊細な感情表現に見事に寄り添うオーケストラの説得力。終幕のヴィオレッタの嘆きのアリア「過ぎし日よさようなら」は、デセイにしかできない表現にオーケストラがさらに深みを与えて、涙なしには聴けない。

色々と屈託を書き連ねましたけど、そういう「椿姫はこうあるべき」という全ての先入観を全部ぶっ飛ばして、「デセイの椿姫」を完璧に作り上げた感動的な舞台でした。父ジェルモンを演じたデセイの夫君ナウリさんの抑制された佇まいと完璧な歌唱にも脱帽。こういう父ジェルモンが歌えたらいいなぁ。というか、ほんとにすごい夫婦だねぇ。カーテンコールで段取りを間違えちゃった(ように見えた)デセイさんを、「おいおい、どうするんだよ」と追いかけていった姿がなんだかほほえましかった。

合唱の厚さと表現力、アルフレードの直情、全てが「デセイの椿姫」を完璧に支えていました。デセイという歌姫がいたからこそ生まれた舞台。そういう意味で、後々、「オレはデセイの椿姫を見たんだぞ」と自慢できる舞台を見ることができました。短い滞在でしたけど、こういう世界的な舞台が集まってくる東京という場所の素晴らしさも味わえた滞在でした。