素人臭さ

週末、「南の島のティオ」の練習をした以外は、エアコンの掃除をしたり、車を洗ったり、家族でのんびり過ごしました。何もない週末ってのはいいやね。

土曜日の夜、女房といつも見ている、「チューボーですよ」を見ていたら、津田寛治さんがゲストで出ていた。彼が、「絵を描くのが趣味なんです」とおっしゃって、彼の描いた絵の写真が画面に出てきた。確かにものすごく上手な絵なんだけど、なんとなく、素人臭い。テクニック的に言えば、素人離れしたテクニックなんだけど、絵からこっちにアピールしてくるものが、なんだか素人臭いんだよね。何なのだろう。

そう思っていたら、日曜日の「新日曜美術館」で、ねむの木学園の中に新設オープンした、ねむの木美術館が取り上げられていました。設計したのがあの藤森照信さん、ということで、藤森さんお得意の、自然の中にすっぽり溶け込んだような建物。その雰囲気ももちろんいいのだけど、ねむの木学園の生徒さんたちが描いた絵、というのが、どれもこれも素人離れしている。

そういう絵を選んで紹介している・・・ということもあるのかもしれないけど、プロの画家の絵と同等か、それ以上の存在感を持っている絵が次々と出てくる。テクニック的に言えば、津田寛治さんの絵の方がよっぽど優れていると思えるし、構図にしても絵の具の使い方にしても、全然「素人っぽい」絵です。普通のサインペンだったり、パレットすら使わずに絵の具のチューブからダイレクトに絵筆に取って、ペタペタとキャンバスに塗りこめられた色たち。そんなシンプルな絵たちが、圧倒的な生命力や、圧倒的な存在感を持っている=「素人離れしている」のは何故だろう。

ものすごく簡単に言い切ってしまえば、表現しようとするものと、表現するための手段(=テクニック)のバランス、ということに尽きるんだろうとは思うのですけどね。「これを表現したい」と思って絵筆を持つのだし、表現したいことを表現するために、自分に足りない技術を必死に磨くのだけど、その過程で、「表現することが上手になった僕を見て」という思いに、目的が変貌してしまう。津田さんの絵にも、技術の上手さと表現したいことのバランスがうまく取れていないような感じがして、それが素人臭いなぁ、という印象につながった気がします。もちろん、とっても上手な絵だし、いい雰囲気を持った絵なんですけどね。

ねむの木学園の生徒さんの絵は、「表現したい」ということに対してどこまでも忠実。技術の高度さを見せびらかすのではなくて、絵筆はあくまで、自分の感じたこと、自分の中にあるものを外に出す、という意味での、「表に現す」=表現のための手段に過ぎない。だからこそ、その画面は、「私はこう思った」「私にはこう見えた」「私にはこうあって欲しい」という表現者の思いをダイレクトに「表現」している。

プロの画家の方々がプロとして立っているのは、「表現したいこと」と、それを表現するテクニックが、極めて高いレベルでバランスしているから。そういうパフォーマンスを見聞きすると、なんだか心も体も洗われるような気持ちになるよね。まさにプロの技と、円熟の境地を見せ付けられた・・・という思い。

「南の島のティオ」の練習、相変わらず苦しんでいます。演出家=女房の出すダメだしに対して、自分なりにやっているつもりなんだけど、2時間やっても「全然変わらない」。自分では相当変えているつもりなんだけど、聞き手にそれが伝わっていかない。純粋にテクニック的な部分もあるし、その文章をきちんと伝えようとする気持ちの欠如・・・という部分もある気がするんだけど、中々壁が突破できずにいます。「素人にしては上手な舞台だね」という感想をお客様に持たれてしまったらおしまいなので、あと1ヶ月の間に、なんとかこの壁を突破しないと・・・