「クージョ」〜解説の読み方を間違えた(T_T)〜

わりとせっかちな性格なもので、長い小説とか読んでいると、先のことが気になってくる。とはいえ、結末ページを先に読んじゃう、というのは反則と分かっている。というわけで、私がよくやる悪い癖(悪いと分かっているけど止められない)が、文庫本の解説をちらちらと先に読むこと。全部読んじゃうと結末が分かっちゃうかもしれないので、冒頭あたりの、解説者の全体的な感想とか、作品の背景とかの記述だけを読む。「で、この作品だが…」なんて文章が始まると、読むのを止める。

作品を味わう上で、そうか、と思うような前知識が得られることもありますし、解説者が語る作品への視点を参考にしながら、自分なりの視点で作品を味わう、という意味でも、有用な方法だったりします。でも、時々大失敗をする。「ネタバレ」の文章を、思わず目が捉えてしまう、という失敗です。

てなわけで、「クージョ」です。スティーブン・キングをちょっと読み進めてみようかな、と思って、図書館で借りたです。怖い、というより、すごくイライラする。色んな偶然が重なって、思わぬ地獄に落ち込み、そのまま逃れられなくなる母子の壮絶な闘い。もう少しで助かるのに、ここで彼が少し気を回せば助けられるのに、というギリギリのところで、運命の糸がするり、と逃げていく。その繰り返し。これはイライラする。しかも、幼い子供がひどい目にあう、というシチュエーションが、同じくらいの年頃の子供を持っている私にとっては無闇に大きく響く。無茶苦茶イライラする。イライラの挙句に、悪癖の「解説前読み」の癖が出て、ちらちらと解説を読んでいたら、結末を記述した20数文字の短い文章が目に飛び込んできてしまいました。しまった、と思ってももう遅い。

こういう経験、過去に1度やらかしたことがあります。アイザック・アシモフの「銀河帝国の興亡」の解説を先に読んでいたら、最大の謎解きの一つの答えがモロ記述してあって、それから先の謎解きの楽しみが8割くらい減退してしまった。人間の記憶ってのは不便なもので、たった20数文字の短い文章だからといって、頭の中から消去してしまう、なんてわけにはいかない。「この人物は最後にこうなっちゃうんだ」「こうなっちゃうんだ」「ああ、こうなっちゃうんだああああ」という言葉が頭のなかをグルグルしながら、先を読み進めていく虚しさ。まぁ、それでも読ませてしまうところが、スティーブン・キングのすごさだったりしますけどね。

最近出会う色んなインプットが、全て、人間存在のすぐ傍らに口をあけている巨大な不条理や、無目的の悪意のようなものに対する闘い、というテーマにつながっている気がしています。「クージョ」においても、一つの平凡な家庭が、ちょっとした運命の悪意と、偶然の重なり合いによって、地獄そのものの責苦と、崩壊と喪失の悲劇に見舞われる様を描いている。しかもキングは、その悲劇が、単なる運命のいたずらとしてではなく、人間の日常の側で常に息を潜めている「化け物」=不条理の悪意がもたらしたもの、として描き出す。この巨大な悪意に対して、人間の善意や愛情が、どこまで前向きな解決を与えてくれるだろう。その絶望感と、決して埋められることのない喪失感。

読書、というのも一期一会の出会いで、読み始めから読み終わりまで、結末も何も情報のないまっさらな所で読み進んでいくのが、本来正しい読書なんでしょう。そういう意味では、私のような「解説前読み」というのは邪道なんだろうな、と思うんだけどねぇ。なんでか、止められないんだなぁ。