戦争を笑い飛ばせた時代

新宿オペレッタ劇場の練習が昨夜もあり、次第に各シーンの流れが見えてきました。毎日ひたすら復習の日々。

今回の「小公爵」の中で、主人公の若い公爵が戦地に赴き、大勝利を挙げて、「戦争ってのは楽しいものだなぁ!」と威勢よく歌うカッコイイ曲があります。実は、新宿オペレッタ劇場の過去の演目でも、戦場の出来事を軽く茶化した楽しい曲があって、この頃(19世紀末ごろ)の「戦争」というものが、眉根をひそめて真剣に語られねばならない事象として捉えられていないことが分かる。これが現代になると、「なんて不謹慎な!」なんて怒られそうな気がしちゃうから不思議。

戦争という事象を茶化したり、笑ったりできる、という状況はどういう状況なのかしら、と考えてみると、その状況自体があまりに日常化してしまって、もう笑うしかない、という状態、というのもある気がするんだけど、笑う対象とするだけ、戦争という状況自体が人間的な日々の営みの範囲内に収まっている、というのが一番の前提条件のような気がします。要するにこの時代、殺戮という戦争自体の性格は変わらないとしても、殺す側と殺される側はあくまで、互いの顔を目視しあい、認識しあい、人間同士として殺し合いを行っていた。それが人道的にどうだ、という道徳論は脇に置いて、少なくとも、「笑い」の対象にできるくらい、人間的な現象だったんじゃないか、という気がします。

銃弾や矢が飛び交う戦地であったとしても、「敵の射撃手がションベンしている間に、敵陣に接近できたんだ」とか、「銃剣で刺し殺した相手が立派な時計をしてたんで、頂戴しちゃったよ」なんて話ができるとしたら、それって、随分人間的な戦場なんじゃないかと思うんです。もちろん、そういう戦場であったとしても、人が人を殺すという非人道的な場所であることに変わりはないんですよ。戦争という手段を賛美する気はさらさらないんですけど、でも、まだ「笑える」範囲に収まっている戦争、という気がする。

戦争が、「笑えない」ものに変貌してしまった決定的な戦いが、第一次世界大戦だったんじゃないかな、という気がしています。いわゆる「失われた世代」の作家たちが描き出した、虚無と絶望の戦場において、「笑い」という人間的な感情が入り込む余地がない。それは、「人が人を殺す」という人間的な戦いが、「どこからともなく飛んできた銃弾が、気がつかないうちに人を殺している」という、「非人間的な不条理な死」が充満する戦いに変貌してしまったから。

銃弾が砲弾になり、爆弾になり、ミサイルに搭載された核弾頭になり、殺す側も、暗視カメラに映されたモノクロ映像の照準に合わせて、ただボタンを押すだけ、という戦いになると、「人が人を殺している」感覚はどんどん希薄になっていく。殺される側も、何かしら人間的なものが自分を殺した、という感覚よりも、ある日突然空を覆った閃光という、非人間的な不条理なものに殺されていく。そういう戦場において、「笑い」が存在することは、ものすごく難しいことになっていく。

以前、ナンシー関大月隆寛の対談集「地獄で仏」を読んでいた時、オウムの地下鉄サリン事件を評して、大月さんが、「これを笑っちゃいけないと思うんだ」と言うのに対して、ナンシーさんが、「それでもなんとかこの事件を笑い飛ばせないかしら」と必死に食い下がる、という対談がありました。「笑い」というのは、様々なものを客観化し、相対化する一つの強力な武器で、「笑い」の前においてはある意味、全てのものが平等になる。ナンシーさんは、オウムを絶対的な悪として、「笑ってはいけないもの」=非人間的であり、絶対的な悪、不条理であるもの、として、自分たち=「人間的なもの」のカテゴリーから別のカテゴリーに分類して安心しようとするトレンドに対して、「そうじゃないんだ、オウムというのは実は、ものすごく人間的で、我々の側にも存在しているものなんだ」「だからこそ、笑い飛ばしてやらないといけないんだ」と必死に主張していたような気がする。

戦争、あるいは、最近よく言われる「テロリズム」というものが、「笑えないもの」=絶対的な不条理、絶対的な悪、になってしまった、ということは、それらの持っている非人間性、あるいは顔の見えない無名性、ということに一つの原因がある。さらに言えば、我々自身の日常が、いかに戦争というものから「一見」遠く見える平和な状態であるか、ということの裏返しでもある。戦争にせよ、テロリズムにせよ、あまりにも絶対的な不条理で、自分たちのそばには存在しえないものだから、笑いの対象にもならない。でも、本当にそうかしら?日常の中に、戦争状態に近いような非人間的な側面はあるんじゃないかしら?日常そのものが、実は笑っちゃうほど不条理に満ちたものなんじゃないかしら?つい先日まで気心の知れた家族の一員だと思っていた妻が、兄が、突然家族を殺して切り刻む、そんな日常には不条理はないのか?

おおらかに戦争の祝祭性を歌い上げる猪村さんのかっこいいソロを聞きながら、人間の営みが、いつのまにかどんどん非人間的に、不条理に変貌していってしまう現代という時代について、ちょっと考えてしまいました。「小公爵」自体は、そんなくだらないことを考える暇もないくらいに、ばかばかしくて楽しいオペレッタなんですけどね。