「教育」なんて言うから胡散臭くなるんだよなぁ

うちの女房は、NHKの音楽コンクールが嫌いだ、とよく言います。春先あたりに、NHK教育を見ていると、時々、NHKの音楽コンクールの課題曲紹介番組が放送されていたりする。こういう番組を見るたびに、「胡散臭くてやだね」とぶつぶつ文句を言っている。

女房の所属する大久保混声合唱団が毎年参加している、全日本合唱連盟の主催する「合唱コンクール」と比較すると、NHK音楽コンクールの「胡散臭さ」が際立って見える。「合唱コンクール」の課題曲は、純粋に合唱団の指向する音楽性に沿って選択できるようになっている。バロック、ロマン派、現代曲、さらに、日本の合唱曲の裾野を広げるための、新人作曲家による公募作品などが「今回の課題曲」ということで一冊の本になっていて、その中から、合唱団が「今年はこれに挑戦しよう」と選ぶシステム。

要するに、「合唱コンクール」の方は、純粋に、「合唱」という芸術と技術の完成度を競う、という視点に立っている。これに比べて、NHK音楽コンクールの課題曲は、有名詩人や有名作曲家が、その年の「テーマ」に沿って書き下ろした新作。その「テーマ」というのが胡散臭いんだなぁ。ちなみに、今年の「テーマ」は、「つながる」というテーマらしい。俵万智さんだの、重松清さんだのが、そのテーマに沿って詩を書き下ろし、それに、新美徳英さんだの高嶋みどりさんだの、錚々たる方々が曲を付けている。

この胡散臭さ、というのは要するに、主催者であるNHK=大人側が、合唱という「音楽」を通して、子供たちを教育しよう、という視線が露骨に見えるところから来る。合唱団側がテーマを選べない、と言うところも、中央集権的でやだよね〜。みんなで「つながる」というテーマについて考えてみようじゃないか、なんて、子供たちを教室に集めてホームルームを開いているみたいな感覚。NHK教育にもそういう番組があるよな。子供たちが一つのテーマについて討論する番組。ああいう感じがすごくする。

最近話題になっている、高野連の「特待生制度」を巡る話。ここにもすごく胡散臭さが漂うのだけど、なんだか、NHK音楽コンクールに漂う胡散臭さと共通のものを感じるのだね。高野連=大人側が、野球という「スポーツ」を通して、高校生たちを教育しようとする視線。我々はスポーツを通した青少年の健全な育成のために、なんていいだした途端に漂う胡散臭さ。

野球がプロ野球というビジネスとして成立している以上、その技術が優れている者が、プロ野球という場に「就職」するために有利な場所を選んでいこうとするのは当然のこと。ものすごく手先の器用な人が、職業訓練を受けて専門学校に進学し、優秀な技術者になる、というのとあんまり変わらない。それを、「教育」という言葉を前に出した瞬間に、ものすごく胡散臭い空気が漂う。

音楽というのは、スポーツとすごく似たところがある、というのは、この日記でもよく書いています。パフォーマンスとして、人に感動を与える、という共通性。肉体表現であり、自分の肉体をいかにコントロールするか、という技術の高さが勝負になる、という共通性。さらに言えば、肉体と精神のバランスがパフォーマンスに影響する、という点も共通している。

そこに、「教育」という胡散臭いものが入り込んでくる余地がある。声をそろえるためには、一つ一つの音符や言葉に対する解釈や気持ちを一つにする必要がある、なんてことを言い出すと、子供たちの連帯感を育てるための「合唱」なんて話が出てくるし、教育現場では実際に、合唱をそういう手段として取りこんでいると思います。スポーツだってそう。連携プレーと、個人技の間のバランスの中に、個と集団のあり方を学ぶことはできるし、実際、教育現場における「スポーツ」というのはそういう手段として使われている。

でもその一方で、「目的」としての音楽があり、スポーツがある。教育のための「手段」としての音楽・スポーツではなく、ただひたすらに「いい音楽」「いいプレー」を追及していくこと。そういう「いいもの」を作ろうとするアプローチは、時に「教育」的とはいえない現象を生む。プロ指導者とも言うべき監督や指揮者の発生、優れた能力を持つプレイヤーを「特待生」として集める。逆に、指導者によっては、歪んだ「教育」の手段に使われてしまう可能性だってある。声をそろえる、チームプレーに徹する、という指導が行き過ぎて、体罰だの陰湿なイジメだのが入り込んでくる可能性。

以前の上司で、少年野球の監督をやっている方がいて、彼のチームに結構いい選手がいたそうです。そしたら早速、「僕が口を利いてあげたら、いい高校の野球部に入れるよ。入学試験免除も可能だよ」と言ってくる謎のオッサンがコンタクトしてきたらしい。当然、「口利き料はxx円」という条件付き。

そこまでやられてしまうと、ちょっといかがなものなのかな、とは思いますけどね。ビジネスと割り切るのもちょっと程度問題かもしれんけど、学校の方針として、「一つの特技を持った子供の能力を伸ばす」という観点から、特待生制度を持つのは「教育上」もおかしいことじゃない。いずれにせよ、音楽も、スポーツも、あんまり「教育」の手段という側面を強調しすぎない方が健全な気がするんだよねぇ。スポーツなんかは特に、それがプレイヤーの生活手段になる可能性が高い、という実態を無視するのは難しいと思うんだが。高野連あたりは、「高校野球は他のスポーツと歴史が違うのです」なんて言いながら、「青少年の健全な精神の育成のための高校野球」なんていう錦の御旗を一生懸命振り続けているけどさ。