やっぱり「間」だよ

週末から月曜日にかけて、いくつかの舞台の練習を重ねました。土曜日は、7月のGAGの舞台の練習。日曜日は、大田区民オペラ合唱団の練習。本番指揮者の森口真司先生の指導です。月曜日は年休をとって、8月にお手伝いする予定の、女声合唱団「コール・サファイア」のナレーションの合わせ練習。

いつも言われることでもあるし、いつも難しいことでもあるのだけど、大事なのは、「間」。これはどのパフォーマンスにも共通で、これができれば、ほとんど95%くらいできたようなものなんです。「間」とか、「間の取り方」という話をすると、要するに、言葉を発していない時間の長短の問題、と捉えがちなのだけど、実は全然違う。言葉を発していない時間に、どれだけ意味を持たせるか、どれだけ質量感のある、密度の濃い「間」を取れるか、ということなんです。

GAGの練習では、最初、「どの間も同じに聞こえる」と、演出家に随分怒られました。これを、「間」の長さを変えてみよう、なんていうことで解決しようとすると、逆にうまくいかない。それぞれの「間」の中に、自分なりに意味を持たせたり、あるいはそのフレーズ全体の語り手のキャラクターが明確になってくると、逆に「間」の軽重が変わってくる。単に音のない時間としての「間」だと、「決まった間を取っている自分」を見せるだけの表現になってしまう。登場人物や、語っている物語の輪郭が明確になるような「間」を探す作業を、ひたすら探していきます。

大田区民オペラの練習では、森口先生から、「最初が肝心なんですよ」という話をされる。「フレーズの頭の音の色で、その場の空気が決まってしまうんです。途中から一生懸命立て直そうとしても無駄。最初の音をきちんと色づけて出さないと。そのためには、その最初の音の前の休符のところで、十分に体と気持ちを作っておかないとダメなんです。」

これも要するに、「間」ということ。「間」=休符のところで、どれだけ自分の感情や、体のフォームや、呼吸を作っておくことができるか、ということ。そういう「意味のある休符」が、フレーズの最初の音の色を決めてしまう。

月曜日にお邪魔した「コール・サファイア」の練習は、曲の間をナレーションでつなぎ、一つのオリジナルの物語を語ろう、という舞台です。私はそのナレーションの担当です。こういうナレーションで意識しないといけないのは、ナレーションが終わってから曲が始まるまでの「間」。つまり、自分が語り終わった後の、次へと引き渡していくための「間」。ここをうまく受け渡せるようにするには、自分のフレーズの最後をどういう形で終わらせて、その最後の息を、これから始まる曲の印象と合わせるか、というところが大事になる。とても明るい曲の前のナレーションを、重たく終わらせてしまうとつながらないし、ただ明るいだけじゃなく、曲のお洒落な印象につなげるような明るさ、とか、色々と計算が必要になります。

日曜日、娘を女房に引き継ぐために、ちょっとだけ拝聴した、新宿区合唱連盟の「初夏に歌おう」。大久保混声合唱団が、「水汲み」を歌ったのだけど、ちょっと物足りない演奏でした。テクニック的にも、声の美しさという点でも申し分ない演奏なのだけど、なんだかあっさりしている。辻正行先生がお亡くなりになった年の合唱コンクールで歌われた演奏と比べてしまうからなのかもしれないけど、どこか物足りない。

何が物足りないのかなぁ、と考えると、やっぱり、「間」なんですね。「水を汲んで 砂にかけて」というリフレインが終わって、次のフレーズに移っていく時の間が、どれもあっさりしている。意味のある、みっしりとした「間」に聞こえない。すごく失礼なことを言ってしまえば、とても上手な高校生の合唱団の演奏のような、ただ上手に歌った、という感じの演奏に聞こえる。

正行先生の「水汲み」の「間」は、空中にふっと投げ上げられた紙風船のような浮遊感と、それをそっと受け止める柔らかい人間の手のぬくもりを感じさせるような、繊細でみっしりと密度の濃い「間」でした。水を汲んで、それを大切に地面にかける。その水の一滴一滴が、その年の実りと命につながっていく。その生命の連鎖と、祈りにも似た労働の一つ一つの動作まで感じさせるような。女房にそんな話をすると、「正行さんはねぇ」とため息交じりに、こんなことを話してくれた。

「正行さんの指揮にはね、こうしなさい、ああしなさい、という指示がないんだよ。ただ、空中に、『ほら、僕が欲しい音がここにあるから、みんなこの音出してみて』、みたいな、そんな夢見るような顔をするんだ。どの『間』も全部違った表現で、どの『間』にも、全部違った意味を感じたんだよね。」

合唱団を指導する、ということではなくて、ただ、あるべき音楽の姿を指し示すだけ。そうやって示された道しるべをたよりに、合唱団が自分で、進むべき道を探し出す。そういう自発的なコミュニケーションの過程が、みっしりとした「間」を生み、その「間」が、フレーズの冒頭の音の色の色合いを複雑に変えていたのかもしれない。

一つ一つの「間」をおろそかにしない。口で言うのは簡単だけど、これを実際にやるとなるとものすごく大変なこと。ナレーションでも歌でも、自分の「間」をしっかり探し出していく過程が、一番大事で、一番難しい。