「真似すること」は大事だよ。

女房が、先日、小金井の近くにある、子供の創造力を伸ばす、という教室のワークショップに行ってきて、「中々面白かったぞ」と、レポートをしてくれました。我々のやっている舞台表現につながる話も多く、なるほどねぇ、と思うことが多かったので、ここに(一部編集の上)転載しておきます。以下、女房のレポートからの転載部分は、『』で括ってあります。
 
『実際にあった、生徒さんの話が興味深かったです。
ある年長さんの男の子が、上手に描けた絵をおうちに持って帰ったら、おばあちゃんがとっても喜んで、その子の絵を額に入れて飾ったんだって。
そしたら、その後、その子は3ヶ月くらい絵が描けなくなっちゃったんだって。
「こんなふうに描かなくちゃ」「これより上手に描くにはどうしたらいいんだろう」ってことばかり気になって、表現意欲が損なわれちゃったらしい。』
 
舞台をやっていて、よくある話なんですが、「こうしてやろう」とか、「お客様の受けを取ろう」という、外向きの意図を持った表現をすると、ほとんど必ずといっていいほど失敗します。そういうヘンな意図を捨てて、ただ現在与えられた自分の表現するべき素材を、きちんと表現しよう、とする方が、よっぽどいい結果が出てくる。

非常に微妙な話なんですが、練習会場でウケた演技を、「練習会場でウケたから再現しよう」とするときに、「あの時みたいにウケよう」と思うか、「あの時の自分の演技を再現しよう」と思うか、という違いって、実はすごく大きな違いだったりする。成功した時の自分の演技の間や、作り方を冷静に分析して、それを冷静に再現していこうとするアプローチと、「ウケ」を狙いに行くアプローチというのは、似て非なるものなんですよね。
 
『子供が絵を描いたのを見て、「まねをしちゃいけません」「本なんか見ないで、自分で描きなさい」というお母さんが多いけど、「模倣」には、よい模倣と悪い模倣があるんだって。
本質を得るための模倣はよい。会得したあと、自分なりのアレンジが可能。
コピーをするだけの模倣は、ただの縛りになり、自分のものにならない。
「本質を得るための模倣って、何も小難しいことじゃないですよ」と言われて、例として、お魚の絵を何枚も描かされたりしました。
要するに「紡錘形、エラ、背びれ胸びれ尾びれ尻びれ、目、口」があるってことを知ること。まず描く前に、お魚を観察する。
そして、簡単な線でいいから、何枚も何種類も描くことが大切。
そうしないと、体験としてきちんと落とし込めない。
そのうち楽しくなって、どんどん書きたくなる。色も塗りたくなる。
いろんなお魚があるけれど、どのお魚も「紡錘形〜目、口」があることを知る。
これが物の構造を知るということ。
動物や植物や、建物や乗り物、いろいろ応用できる。』
 
舞台表現の基本は、「模倣」です。歌唱もそう。とにかく、上手な人の真似をすること。だからこそ、上手な人が出る舞台をたくさん見る。上質なパフォーマンスをたくさん見て、「盗む」。模倣の先にしか、創造はない。何もないところから生まれてくる表現なんてないんです。全ての表現は、自然の模倣、先達の模倣から始まっていて、自分のオリジナリティだけで成立している表現は、ただの自己満足に過ぎない。

歌唱、という表現でいえば、いかに楽譜に忠実に表現するか、というところを突き詰めていくうちに、自分なりの解釈や表現が見つかっていくもの。楽譜から離れた「オリジナルな表現」なんてない。まずは、「魚の基本形」を捉えるように、「歌の基本構造」をきちんと捉えなければ、次のステップには進めない。

娘の小学校では、良質な児童書を子供に与えて、ひたすらに「写し書き」をさせる、という授業があります。良質な日本語をただひたすら写し、声に出して読むことで、自然と、良質な日本語を読み、書き、話す能力が身につく。昔の寺子屋で、先生の読む「子曰く」を、子供が繰り返して朗読していたのも、体で正しい言葉を身につける鍛錬でした。

オリジナリティや「個性」と言う言葉が独り歩きして、色んな親が、子供に、「自分らしくあること」を強要しています。でも一番大事なことは、これがいい生き方だ、と思う見本を、親自身が子供に見せること。これが美しい所作だ、と思う見本を、子供に見せて、真似させること。子供の一番の教科書は親であって、子供は親を真似して成長するのだ、ということ、言い換えれば、子供の「自分らしさ」は、親の生き方を基礎にして育っていくものなのだ、ということを、親としては常に考えるべきなんでしょうね。