「ライオン・キング」〜宿命・輪廻〜

週末、ちょっと訳ありで確保していたミュージカル「ライオンキング」を、混声合唱団のお知り合いと一緒に見に行く。映画も見たことなかったし、日本にいた頃にも、劇団四季の舞台を見たことはなかったので、全くの初見。当然、英語のセリフのかなりの部分が聞き取れなかったりしたけど、でも十分楽しめました。

パペットや仮面を使った演技を取り入れる舞台は、最近時々見るようになったけど、やっぱり「ライオン・キング」が初めて現れた時は衝撃的だったですよね。舞台装置の仕掛けに頼っている部分(特に、中央に奈落からせりあがってくる、円錐形の岩のオブジェ(プライド・ロック、というそうな)とか、バッファローの大群の来襲とか)もあるんだけど、大部分の仕掛けが人間の肉体表現に拠っているところがすごい。文楽の舞台が、人形そのものの作りの見事さだけでなく、操り手と義太夫の技によって成り立っているのと同じように、ほとんどの「仕掛け」が人間の肉体によって操られている、その操作技術の見事さ、肉体表現との一体感に感動する。

肉体表現、という意味では、当然のごとく出演者の歌唱技術、特に、祈祷師のラフィキ役の方のアフリカ歌唱の素晴らしさに感動。すごいなぁ、と思っていたら、南アフリカのご出身の方だったそうで、まさに本場の歌い手さん。公演の最後には、エイズ撲滅と南アフリカアパルトヘイト撲滅のための寄付の呼びかけがあり、非常にアフリカ色の強い舞台。

一緒に行った混声合唱団の方が、ブロードウェイの舞台へのアフリカンアメリカンの進出、という意味でも面白い舞台ですよね、という感想をおっしゃっていて、そうだなぁ、と思った。出演者のほとんどが黒人で、そういう意味では、先日見た「ウェストサイド物語」が、スペイン語を舞台に乗せることによってヒスパニックの人たちに舞台への道を開いているのと、構造的には似ているのかもしれないね。

シンバとナラの子供時代を演じた子役さんたちがものすごく達者で、特にナラ役の子と、ラフィキとサラビ(シンバのお母さん)の悲しみの三重唱は素晴らしい出来でした。

舞台の裏方出身者としては、客席で飛び交う鳥とかを見ると、「照明器具にひっかかっちゃうんじゃないかな」なんて心配になってしまうんだけど、さすがに何千回と公演を重ねているだけあって、そんなトラブルは一切なし。と思ったら、小さなトラブルがあって、紗幕の中でダンサーがまだスタンバイしている最中に、紗幕の中の明かりが一瞬入ってしまう、というトラブルがあった。以前自分が舞台監督をやった舞台で、同じトラブルを経験している身としては、「ブロードウェイでも同じことがあるんだ」と、なんとなく意味もなく感動してしまったりする。他にも、ティモン(シンバの友達のミーアキャット)が、おぼれかけて助かった時にくわえていた魚を投げ上げて、それをプンバァ(イボイノシシ)がぱくっと食べちゃう、という場面で、ブンバァが魚を受け止め損ねて落としちゃった。どうするのかな、と思ってみていたら、ティモンが拾って退場していました。こういうトラブルばっかり見ているっていう所がヤラシイ客だよね。でも逆に言えば、そういう細かいトラブルなんかもうまく処理してしまう見事な舞台運びにも感動してしまう。

物語については、以前、日本で読んだ劇評で、「シンバの戦う理由が不明確」という劇評があって、それは確かにその通り、という気がしました。ただ、最後のシーンを見て、これは輪廻の物語なんだ、と納得した時に、親から子へと受け継がれていく血と、それと共に流れ続けていく宿命、というキーワードが浮かんでくる。その宿命の輪の中で、自分のいるべき場所を見出す若者の物語、としてとらえると、彼の戦う必然性も見えてくる。自分が本来いる場所を取り戻すための戦い、自分のアイデンティティの確立のための戦い。そう考えると、それは先ほどの人種問題とも共鳴してきたりしますよね。アフリカンアメリカンの人たちが、戻るべき場所、としてのアフリカを描いた舞台。そしてそこに立つ「アメリカ生まれのアフリカ人」が歌うアフリカの歌。脈々と自分たちの中に流れ続ける血の物語。まさに彼らの、アイデンティティを歌う舞台。

そう考えると、同じ輪廻を描いた、ヤナーチェクの「利口な女狐の物語」と、不思議なくらいラストシーンが重なって見えたりします。あれも、チェコという土地とその自然にしっかり根ざした宿命と輪廻の物語で、私が見たボヘミアオペラの舞台は、まさに「自らのアイデンティティ」を歌う舞台のように思えました。NYで日本語の合唱曲を歌おう、という私のアプローチにも、少し共通するところがあるよね、とまで言ってしまうと、ちょっとこじつけすぎかな。