娘の大泣き

自分の子供が自分に似ているっていうのは至極当たり前のことではあるんですが、外見がどれだけ似ているか、という分かりやすい話より、行動パターンとか言動に時々ぎょっとすることがあります。子供の中の心の動きようが、ものすごく理解できてしまう、というか、自分の似て欲しくなかった欠点がそのまま引き継がれていることに呆然とする、とか・・・最近そういうことが2度ほどありました。

最近、娘の新体操の練習を見学に行った時のこと。子供たちがペアになって、棍棒を投げ合って受け止める、というワザを見ていて、他のペアが上手にできているのに、娘のペアがなかなかうまくできない。見ていると、投げる前に息を合わせるプロセスがちゃんとできていない、と分かる。練習が終わってこちらに駆け寄ってきた娘に、ママが、

「ちゃんと二人で息を合わせないと」

という話をすると、娘が、

「えーえー、どーせ私はへたくそですよー」

と言う。本人は、「ちりとてちん」の小次郎おじさんの真似のつもりだった、というのだけど、それにしてもよくない態度です。ママは家に帰ってから、ちゃんと人の助言を真面目に聞かないと、何をやっても上手にならないぞ、とかなりきつく叱りました。叱られても、なかなか御免なさいが出てこなかった娘は、しばらくするとぎゃんぎゃん泣き出して、

「昔の自分を消しちゃいたい」

と言う。なんだかわが身を見ているようでひどく切なくなる。

うまくいかない歌や演技にダメを出されて、「えーえー、どーせ私はヘタクソでございますよー」と開き直るのは、私が今でもよくやることだしなー。自分の失敗を中々認められなくて、御免なさいを全然言えなかったのも、子供の頃の私とそっくりだし、今でも中々「御免なさい」を言うのが苦手。結局反省と後悔にさいなまれて、昔の自分の言動やら何やらを全部消しゴムでゴシゴシ消せたら、なんて思ってしまうのも、今の自分に重なってしまう。

もう一つのお話。昨夜、ガレリア座の練習から帰ってきて、車の中で寝てしまった娘をそのまま寝かしつけ、夫婦でリビングにいたら、二回の娘の部屋から泣き声が聞こえてくる。あらら、目が覚めちゃったか、と娘の部屋に上がってみれば、娘がぐずぐず泣きながら、

「明日学校イヤだ」

と言い出す。そんなことを言い出したことは一度もなかったので、ぎょっとしたパパが問いただしてみれば、

「毎日出ている算数の宿題プリントが見当たらない。」

とのこと。学校から持って帰るのを忘れたか、どこかでなくしてしまったか・・・いずれにせよ、最近子供の忘れ物が多いということで、忘れ物には厳しく接している先生に、「怒られるのが怖いから、学校に行きたくない」と娘は泣いている。

ママも部屋に来て一緒に探すけれど、プリントは見当たりません。「見つからないから、明日学校に行かないっていうのなら、もう一生学校には行けないよ。いつかはプリントをなくしましたって、先生に言わないとダメなんだから」と言われて、娘はぐずぐず泣き出す。「大丈夫だよ、忘れちゃいました、ごめんなさいって言えば、先生もそんなに怒ったりしないよ。」と慰めて、なんとか寝かしつけました。

朝学校に行ってみれば、その日はそもそも算数プリントの宿題が出ていなかったことが判明、娘はご機嫌で帰ってきて、ママから、「持ち物管理をちゃんとしなさい」とお目玉。事なきを得たんだけど、なんだかこれまた身につまされる。

自分が完璧主義なものだから、ちょっとした失敗があっただけでこの世の終わりみたいに思ってしまう、というのも、自分の子供の頃にはあったこと。小さな忘れ物とか、ちょっと先生に怒られたこととか、今から思えば本当に些細な失敗なのに、45歳も近い今でも鮮明に覚えていたりします。全然完璧じゃなくって、結構おっちょこちょいなものだから、忘れ物や失敗が人より多い癖に、そういう失敗のことを妙にくよくよ思い出したり、うじうじ悩んだりするんだよね。逆に、楽しいことや嬉しいことは結構忘れているのに、そういう恥ずかしい記憶ばっかり残っていたりする。「恥の多い人生を送ってきました」とは、太宰治のセリフでしたっけ。

子供は親の鏡、というけれど、本当に色んな意味で、子供の中にしっかりと刻まれている自分自身の姿に、時々本当に驚かされます。プラスの部分もマイナスの部分も全部ひっくるめて自分。そういう自分を愛せるような大人に育ってもらうためには、まずは親が、自分自身を愛せるようにならないと。