自分の中に時間軸を持つこと

「小公爵」の練習が最終段階に。昨夜は、仕込みの終わった本番会場での場当たり練習。練習会場では分からなかった微妙な立ち位置の調整、客席との距離感、ピアノとの距離感、出入りなどのチェック。思ったよりも舞台上が狭いので、段差も活用しながら自分の立ち位置を決めていく。

こういう練習をしているときに、すごく重要なのは、「次に自分が何をするのか」という感覚です。一つ一つのシーンには、「決め」の立ち位置がある。この歌の時には、ここに立っていてほしい、とか、このセリフの時には、ここに一列に並んでいて欲しい、という「決め」の場所があります。演出家はその「決め」についてきちんと指示してきますが、その「決め」と「決め」の間にどう動いていくか、という部分について、それほど細かい指示はないことが多い。

たとえば、合唱陣が決められた陣形(陣形<1>としましょうか)で一曲歌った後、ドタバタ芝居があって陣形<1>が大きく崩れ、その後、また全然違う陣形<2>に組みなおす、という一連の「流れ」があったとします。その時、この「ドタバタ芝居」の間に、本当にドタバタになってしまって、陣形<2>にスムーズに移動できないことが必ずある。最悪なのは、そういう時に、「わぁ、しまった!」という完全に素の状態になって、体をかがめてこそこそと自分の決められたポジションに移動していく、という行動を取る人が多いこと。舞台に慣れていない方が陥りがちな素人芝居で、観客からは逆にものすごくみっともなく、ものすごく目立って見える最悪の行動です。

ドタバタ芝居の間でも、「次にオレはあの場所に行かないといけないから、ここからあそこまではこうやって移動していこう」という自分なりのプランを組んでいないといけない。それも、かなりきちんと舞台全体を把握していないと、他の人に迷惑をかけることもある。陣形<2>の時の自分の立ち位置が右だから、右にいる人に向かって話しかけるような芝居をしながら移動しよう、と思っていたら、実はその人の立ち位置は左で、左に移動しようとするその人の動きを邪魔しているかもしれない。全体の陣形がどうなっているかを理解した上で、一番理にかなっていて、なおかつそれが「段取り」ではなくって、自然な芝居の中での自然な動きに見えるプランを組む。これは相当緻密な作業なんです。

緻密な作業なんですが、これがすごく自然に出来てしまう人と、なかなかできない人がいる。出来る人、というのは、結局、自分の中にきちんと時間軸を持っている人なんですね。自分が舞台に立っている「時間」を、きちんと「時間」という線で捉えることができる。出来ない人は、大抵、自分が舞台に立っている状態を、静止した「点」として認識することはできるのだけど、動的な「線」として捉えることが下手。

自分の立ち位置を、時間の経過とともに自分が舞台上に描いていく「線」の中の一つの「点」として把握し、自分自身の中で、最も理にかなった舞台上の自分の「動線」をイメージしていく作業。その「動線」の上で、一瞬たりとも、演技者としての素の自分を見せてはいけない。ヴェルサイユ宮殿に集った貴族として、あるいは兵士として常に振る舞い続けながら、決められた「点」と「点」を、いかに合理的な「線」で滑らかに結んでいくか。予想しなかった他の人の動きに対しても、その滑らかさをいかに失わずに動けるか。

音楽を含めた舞台表現、というのは、絵画のような芸術と違って、「時間軸」を持っている表現形態です。一つ一つの音符が、その決められた長さの中で、みっしりとした密度を保っている音楽。一つ一つの動作の流れが、きちんとした意味を持って流れていく動き。そういうプランやイメージをきちんと保ち続けることって、基本的なことなんだけど、実はものすごく難しいことだったりする。あと本番まで2日(ひえ〜)。コーラスマスターのお言葉通り、最後の最後まで、あがき続けたいと思います。