新宿オペレッタ劇場「小公爵」〜先を読むこと、周りを見ること〜

週末、新宿オペレッタ劇場「小公爵」の練習に参加。お小姓役と合唱補助で参加されている福留和大さん、オカマの家庭教師、フリムース役の柳さん、修道院の先生、ディアーヌ役の北澤幸さんも参加され、同じくお小姓役の中原さんも加わって、どんどん舞台の全体像が見えてくる。

今回の「小公爵」、登場人物がどれもこれも、一癖も二癖もある、強烈なキャラクターばっかり。フリムース役はオカマなので、柳さんは常にどっちかの足がくねっと曲がって歩いているし、ディアーヌ先生役の北澤さんも、品のいい、でもどこか掛け違った勘違いオバサマを見事に演じてらっしゃる。こんな癖のあるソリスト陣(出演者が、癖があるんじゃなくって、役柄が、癖があるんだよ)の足を引っ張らず、ヘンに張り合わず、かといってひたすら背景に徹するわけでもなく、微妙な塩梅のいい所を狙って芝居をしていくのが、我々合唱陣の役どころ。それなりに工夫やセンスが必要。

といっても、別にそんなにものすごい奇策があるわけでもなく、やらなきゃいけないことはとっても地味なことだったりするんですがね。まずは自分のパートを覚える。音や歌詞、立ち位置や振りも含めて。次に、自分のパートの前後のソリストのパートやセリフを覚えて、その時の自分のポジションや状況を含めて確認して、出トチリがないようにする。さらに、自分が出てない場面や、自分以外の人の状況も把握していく。それをひたすら頭の中でシミュレーションして、体で覚えていく。

要するに、舞台全体をきちんと理解して、落とし込む、という当たり前のこと。自分自身のやるべきことをきちんとできるようにした上で、自分を含めた舞台全体を把握していくように視野を広げていくこと。これも順番を間違えると、自分のパートがきちんとできていないのに、他のことばっかりに目が行っちゃう本末転倒に陥るし、逆に、自分のパートを完璧にしないと他には目を配ることができない、なんて自分の世界に閉じこもって、周囲との絡みが全然できない独りよがりのお芝居になっちゃうことも。多少なりヌケがあっても、自分のパートをざっと把握しておいて、あとはひたすら立ち稽古の中で、自分のパートを全体の一部として覚えていく、というやり方が効果的だったりする。

時間軸的に言えば、次に何が起こるのか、ということを常に認識しながら自分の現在のポジションを確保していること。空間的に言えば、周りにだれがいるのか、いるべきなのか、ということを常に認識しながら、自分の立ち位置を確保しておくこと。

そう考えていくと、結局、舞台表現というのは、周囲との関係性の中で成り立つものなんだ、という根本的なところに立ち返っていく。共演者、伴奏者、そして、観客との間の関係性の中で成立するもの。だからこそ、自分がその周囲からどう見えているのか、どう聞こえているのか、を、客観的に見つめる視線がすごく重要になる。

歌を含めた音楽表現、というのは、自分ひとりでやっていても結構楽しいもの。部屋にこもって一人で歌っていても楽しいのは、お風呂場の鼻歌が気持ちいいのと同じ。でも舞台に立つ以上、観客に見せる以上は、そういった関係性の中で、自分がどう見えるのか、どう見えるべきなのか、ということをすごく意識しなければいけないはず。

特に、「声」というのは、外に聞こえている音と、自分に聞こえている音が違うものなので、「自分が外からどう見えているのか、聞こえているのか」ということを把握するのが難しい。怒りの歌を歌っても、喜びの歌を歌っても、どんな歌を歌っていても、同じ無表情で、半眼で白目むいて歌っていた友人がいましたっけ。いい声を出そうとするとそういう顔になるんだ、なんて言ってましたけど、発声のポジションとしても間違っているし、単純に、自分の内向きの声に酔ってるだけだよねぇ。