つまみ食いよりフルコース

先日、新宿オペレッタ劇場の練習のあと、支配人のY氏と一緒に食事をしていて、最近の「のだめカンタービレ」ブームについて話をしていました。「すごく面白い漫画だし、ドラマもよく出来てたらしいね」とY氏。「でも、やだなーと思うのはさ、CD業界の便乗ぶりだよね。」

のだめカンタービレ」のヒットで、どのCD屋さんでも、「のだめ」コーナーが出来た。ドラマや漫画で出てくるクラシックの名曲をセレクションしたコンピレーションCDや、「のだめ」で出てきた曲のCDを分かりやすくまとめてワゴンに置いてある。でも、Y氏に言わせれば、「それってクラシックの世界の本当の楽しみ方とは違うと思うんだ。どうして、ブームにそっぽ向いて、もっと泰然自若としているCD屋がいないのかなぁ」と。

「クラシックの楽しみ方っていうのは、CD売り場で、『へぇ、この作曲家は、こんな曲も作曲してるのか』とか、『この作曲家のこの曲を、この人が演奏したのか』といった発見を重ねていくことにあるんだよ。それが、入り口のところで、『あなたのお探しの曲はここにコンパクトにまとめてございますよ』という形でそろえられてしまうと、自分で探求する楽しみはそこからは得られないんだよね。そのワゴンの中から、目当てのCDを買って、それで終わり。むしろ何もしないで、『のだめで使われていた曲はどこにあるんだろうか』って、買い手が売り場をうろうろするように仕向ける方が、よっぽどいいと思うんだけどね。『へぇ、ドヴォルザークっていう人は、この曲以外にもこんな曲を作曲してるのか・・・』とか、色んな発見があるじゃないか。」

「のだめ」コーナーに置かれたベートーベンの7番を買った人が、「じゃあ、別の指揮者の、別のオケのベト7を聴いて聞き比べてみようかな」とか、「ベートーベンのほかの曲って、どんなのがあるんだろう?」なんていう形で、CD売り場の奥へと足を踏み入れてくれるか、といえば、おそらくほとんどそういうことは起こらない。「のだめブームで、クラシック・ファンの裾野を広げることができた、なんてはしゃいでいる業界の人がいるみたいだけど、これで裾野が広がったとは思えない。こういう刹那的なマーケティングをしている以上、非常に一過性のブームに終わっちゃうんだろうな、と思うんだよ。」

クラシックに限らない話なのですが、情報や感動を得るためのプロセスが、非常に安易になっている気がします。コンピレーションCDの隆盛、というのも、たくさんある情報の中から、「いいとこ取り」をして、オーダーメイドの感動をくれる、非常に安易な姿勢に見える。たとえば、オペラの名アリアをたくさん集めたCDとかがありますけど、そこで聴くアリアの感動と、実際にそのオペラを通して聞いていく中で、ドラマのクライマックスに歌われるそのアリアを聴く感動は、実は全く異質なもの。オペラの全幕を聴く、という時間は省略されるし、さほど感動的でもない他のアリアや、レチタティーボを延々聴くなんて無駄じゃん、という人もいるかもしれないけど、そのアリアが与えてくれる本当の感動を実感するためには、一見無駄に見えるその時間がどうしても必要だったりする。それに、その中から、「こんな素敵な曲があったのか!?」という別の発見があったりするんです。

たとえば、「カルメン」と言われれば、大抵の人が、「ハバネラ」と「闘牛士の歌」を思い浮かべるだろうし、ある程度知っている人なら、「花の歌」までは思い浮かべるかもしれない。でも、2幕で歌われる犯罪者たちの楽しい5重唱とか、2幕フィナーレの「自由!」の歓喜のコーラスとか、1幕のホセとミカエラの二重唱とか、実際には全編に美しいメロディが溢れている。「闘牛士の歌」を知っていても、それが2幕に歌われた後、4幕で実際に闘牛士の行進の時に、オケと合唱が声をそろえ、舞台全体をあの旋律が覆う時の感動を知らなければ、本当に「闘牛士の歌」を知っているとは言えない。ベートーベンの「第九」の4楽章はよく知ってるけど、1〜3楽章にも美しい旋律が溢れていることを知らないという人が、4楽章の冒頭のシークエンスの意味を理解しているとは言えない。「のだめ」の中のミルヒーのセリフにもあるけど、「ブラームス交響曲という長い物語の中で、無駄な音符は一つたりとも書いていない」。それを抜粋してしまう、というのは、断片を見て全体を理解した気分になっているだけ。

音楽の感動、というのは、そういうプロセスをきちんと踏んでいかないと、本当の高みに到達できるものじゃないのに、非常に安易な「コンビニ弁当」的な感動が世の中に溢れている。これって、音楽だけじゃなくって、知の獲得、というプロセスにおいても同様。インターネットは、様々な情報や知識の獲得をものすごく簡素化してくれました。先日の「賞味期限」の話じゃないけど、Wikipediaを紐解いたり、Yahooで検索したりすれば、大抵の情報は手に入ってしまう。でも実は、「これって何なのかな」という好奇心から、ものすごく苦労して色んな書物を漁っていくうちに、「へぇ、こんなこともあるのか」「あ、こんな本もあるんだ」という寄り道を重ねていく過程で得られるものの方が大事だったりする。そういう苦労の果てに入手した「知」は、その人にとって、単独の情報としての価値ではなく、様々な周辺情報も包含した、「知の複合体」として認識されるはずで、そういう複合的な知の体系をどれだけ持っているか、というのが、人の教養度合いを示していたりするんです。

もちろん、クラシック売り場になんか足を向けたこともない人が、入り口にある「のだめ」コーナーにまで足を運んでくれた、というだけでも、「のだめ」ブームの意義はすごく大きいと思う。100人が足を運んでくれたとして、そのうちの1人か2人でも、さらに奥の売り場まで足を踏み入れてくれればいいのかもしれない。「ブーム」なんていうのは、とにかくそのブームの渦中でどれだけあぶく銭を稼ぐか、という勝負で、そこから息の長いビジネスを続けていける可能性なんて、1%か2%でもあれば十分なんだ、という割り切りもあるのかもしれないんだけど。

最近、どうもそういう割り切った「ブーム」や、無駄に親切すぎるサービスが多すぎる気もして、それが人間の知の領域を、すごく薄っぺらなものにしているような気もするんですよね。やっぱり、ただ美味しいところだけをつまみ食いするよりも、きっちり前菜から始めて、メインディッシュの感動とデザートの陶酔、そしてアルコールの余韻を楽しむフルコースの方が、文化として成熟している・・・と思うんだけど。まぁ、こんなに偉そうに言えるほど、クラシックをよく知っている人間でもないし、知的に成熟している人間でもないんで、むしろ自戒としてこんな文章を書いてるんですけどね。最近ワープロソフトのおかげで、漢字が全然かけなくなってきてるしなぁ・・・これも安易に便利に流れすぎてる結果だよなぁ・・・