ガレリア座「コルンゴルト編曲版 こうもり」〜たそがれの維納〜

GWの後半は、ガレリア座の公演を中心に、くらやみ祭を見に行ったり、プラネタリウムを見に行ったり、のんびりと過ごしました。今日は、そのガレリア座公演の感想を。

自分も団員なので、ある意味身内の公演ですから、あんまり客観的に見られない部分は否めません。ただ、今回の公演は、一歩も二歩も身を引いて、一観客に徹していた公演でしたから、純粋に、「コルンゴルト編曲版のこうもりって、どんな「こうもり」になるのかな?」という興味で、見ることができました。そういう観点から見たときに、面白いなぁ、と思ったのは2点ほど。

1つめは、もともとの「こうもり」の持っていたすっきりしたオペレッタ色が、ちょっと水彩画のようにぼかされたような、輪郭のぼやけた印象派の絵をみるような感覚がしたこと。もっと具体的に言えば、一つのアリアが終わって、普通なら観客が拍手を入れるところで、拍手を入れることができないような作りになっている。曲が終止しないで、そのまま続いていったりする。どこまでもうるうると音楽が続いていくような、そして時には、セリフそのものも音楽と共に演じられていくような。そういう渾然一体とした感覚。

「何なのだろうね?」と、合唱で参加した女房に聞いたところ、「それはやっぱり、リヒャルト・シュトラウスなんだと思うんだよね」とのこと。「リヒャルトのオペラは、全然切れ目がなくって、ただうるうると続いていくでしょう。そういう時代の感覚だったんじゃないかなぁ。」

そこで、2つめの感想につながってくるのだけど、全体に、華やかなヨハン・シュトラウスオペレッタの世界でありながら、濃厚な哀愁を感じたこと。それは、3幕冒頭でフロッシュが、呟くように歌うコルンゴルトの曲にも凝縮されている哀愁。ウィーンを愛し、ウィーンの音楽を全身で身につけながら、ウィーンに拒絶されたコルンゴルト自身の哀しみと屈託。そんなウィーンを、ズボン役のフロッシュが象徴することで、ウィーンのもつ倒錯的な魅力が表現される。少年のように純粋でありながら、小悪魔のように魅力的で、かつ酔いどれているウィーン。フロッシュを演じた鹿島千尋さんは、さほど演技巧者とはいえないのだけど、持ち前の色気を倒錯的な衣装と身のこなしで包んで、世紀末ウィーンの魅力をきちんと演じていました。

これが「ウィーン世紀末から見た『こうもり』なのだ」という仕掛けは、2幕の途中、有名なオルロフスキーのクプレにも挿入される。オルロフスキーが自分自身を茶化すような(私の役はいつもメゾソプラノが男性の格好をして演じるんだよ、と言う内容の)歌詞を歌ったか、と思うと、唐突に、(だからこそかえって印象的に)「ばらの騎士」の美しいチェレスタのメロディーが流れ、オルロフスキーが、宴会に現れた美しい少女に銀のばらを渡す、という幻想シーンが挿入される。ここで銀のばらを手渡されるのも、3幕でフロッシュを演じる鹿島さんなのです。

この2つの仕掛けは、演出家の八木原氏が、元のコルンゴルト版にはなかった挿入曲として取り込んだシーンだったのですが、全体を、「世紀末のたそがれのウィーンからみた『こうもり』」として捉えなおすのに極めて分かりやすく、印象的なシーンとして仕上がっていました。結果として、我々が一種、「手垢にまみれた」定番オペレッタとして捉えていた「こうもり」という演目が、全く違った視点から「脱構築」化された現場に立ち会えたような、そんな印象を持ちました。

演出の意図も面白かったけれど、ある意味様式化された舞台道具と華やかな照明も美しく、美術監督の長谷部くん、照明の寺西さんの作り出す舞台の美しさも素晴らしかった。ガレリア座の舞台の魅力は、素人だからこそできる冒険心なのだけど、やっていることは意外と王道だったりするんです。例えば「こうもり」を脱構築化する試みなんて、そこら中で試みられていると思うのだけど(バレエ版こうもりとか、現代的な演出のこうもりとか)、そこであえて、「コルンゴルト版」という、一定の評価を得ながらも埋もれてしまったアプローチを掘り起こしてくる。素人だからこそ遊べる。でも、遊ぶばっかりじゃなくって、本格的なものを作っていこうとする冒険心も、素人だからこそのもの。ガレリア座には、ずっと、こういう冒険心を持ち続けていって欲しいし、自分も団員の一人として、そういう活動を支えていきたいと思います。