新宿オペレッタ劇場11〜オッフェンバックは悪魔である〜

土曜日、見てまいりました、新宿オペレッタ劇場11です。

ソプラノ:清水純 竹内そのか
テノール福留和大
バリトン:清水良一 中西勝之
ピアノ:児玉ゆかり

という布陣でした。

今回の新宿オペレッタ劇場、オッフェンバック特集、ということで、オッフェンバックのバカバカしい×200ぐらいのバカバカしいオペレッタコミックソングがずらり。今までのこのシリーズの中でも、最も笑える舞台に仕上がりました。稀代のコミック歌役者、竹内そのかさんがその魅力を存分に発揮し、清水良一さんが、見事なテクニックとキャラクターで笑わせてくれる。福留さんと清水純さんは今回初登場ながら、色気たっぷり、茶目っ気たっぷりの歌と芝居で笑わせてくれる。中西さんはしっかり笑いを取りながら、最後に切ない恋の曲で美声をきかせてくれる。一緒に見に行ったガレリア座のK君の言葉を借りれば、「作曲者のバカさと、訳詞家のバカさと、演出・選曲者のバカさが、出演者に乗り移って出演者全員がバカになってしまった」舞台でした。

舞台上でバカになる、というのは、これは結構大変な技術なんです。以前この日記で書いたとおり、「笑い」を取るお芝居、というのはものすごく難しい。そういう意味では、本当に見事に全てが「バカ」になりきった、本当に楽しい舞台でした。

でも、オッフェンバック、という作曲家は決して「バカ」ではない。バカな作品を書いて、それを見て笑っている聴衆すら笑い飛ばして、笑われている自分自身すら笑い飛ばしている、そういう醒めきった冷徹な視線で、流麗な音楽を書かずには入られない天才。そこがこの作曲家の悪魔的なところなんだよねぇ。

私がオッフェンバック、という作曲家の音楽に最初に本格的に触れたのは(もちろん、有名な「天国と地獄」のギャロップは別として)、ガレリア座で上演した「ホフマン物語」でした。これは非常に幸福な出会いだったと思います。

オッフェンバックに対しては、パリ19世紀末、第二帝政という世界史上稀に見る愚劣な政権下の政治情勢を徹底的に笑い飛ばした、「オペレッタの産みの親」という認識が一般でしょうし、実際その通り。でも、「ホフマン物語」で最初にオッフェンバックに触れた私としては、狂気を内在した悪魔的に美しい音楽を書く人、という認識の方が先に来たんです。実際、「ホフマン物語」というオペラは、流麗極まりない音楽の中で登場人物たちの全てが狂い死にしていくような、醜悪さと美しさ、狂気と純粋、陶酔と冷酷、醒めた笑いと熱狂が混在した、まさしく悪魔のような魅力をもった作品なんです。パリのモーツァルト、と称されたように、オッフェンバックは本当に美しい音楽を書く人なんですが、モーツァルトのような天上の響きではない。権力者を笑い、権力者にへつらう世間を笑い、人間を笑い、自分自身さえ嘲笑しながら、善悪を超越した美しさで全てを陶酔させてしまう、これが悪魔の仕業でなくてなんですか。

オッフェンバックオペレッタは、浅草オペラでも取り上げられたように、日本人にも親しみやすい笑える物語と、美しく耳に残る楽しい旋律に溢れています。しかし、その世界を本当にきちんと表現するのは、実はすごく難しかったりする。それは根底に、「フランスの粋」があるからです。以前、ガレリア座で、「天国と地獄」をやった時、どうにも本質に届かないような物足りなさが残ってしまった記憶があります。それは、自分自身が、どう頑張ってもオッフェンバックの持つ「フランスの粋」が理解できた気がしなかったからじゃないかなぁ、という気がしています。つまり、今でも理解できないんですよねぇ。でも、今回の新宿オペレッタ劇場を見て、清水良一さんの見事な「バカ」っぷりを見ていると、簡単に言い切っちゃえば、「基礎から応用まで、全部できる能力のある大人がやるバカな遊び」という感覚が、フランスものには欠かせないのかもしれない。子供や素人が背伸びしてやっても、それなりに楽しくはなるけれど、決して本質にはたどり着けない成熟した世界。

そうやって深入りしていくと、どんどん味が出てくる。そういう意味でも、オッフェンバックの曲というのには、悪魔的な魅力を感じます。オッフェンバック、いつかまたやりたいなぁ。