閾値を上げること

今日はなんだか無闇に忙しいので、あんまり長い文章は書けないのですが、少しだけ。最近感じていることなんですが、舞台をやっていて、観客の「ウケ」が取れる閾値がひどく低いなぁ、と思うことがあります。特に、「内輪ネタ」みたいなところで、そういう要素がすごく出てくることがある。アマチュアの舞台、というのは結構、このワナに陥りがちなんですね。

例えば、ガレリア座の公演練習が進んでいくと、ある時点で、オケも含めた通し練習の段階に入ります。オケの人たちは、それまでずっと音楽にしか触れていなかったから、お芝居の部分も含めた全体像に触れるのはそれが初めて。そうすると、なんだかやたらにオケの人がケラケラ笑っているのが見えたりする。演じている側としては、そうやってウケてくれるとこちらも嬉しいんで、結構ノッて演じられたりするので、とてもありがたいんですが、時々、「なんでウケてるんだ?」と疑問になるようなところで笑ってる人がいたりする。後で聞いて見ると、

「xxさんがこんなことやってるのが面白くって」

と言われたりする。自分がよく知っている人が、思ってもみない「演技」を見せる意外性で笑っている。でもこれって、その人を知らない観客から見れば、別になんということのない普通の演技だったりする。

怖いのは、演じている側が、そうやって笑ってくれる身内の「笑い」を、自分の実力と勘違いしてしまうこと。あるいは、「ウケたからこれでいいんだ」と安心してしまうこと。既にそこで、自分の演技を客観的に見る視点を失ってしまっている。

そういう意味で、観客の側にも、色んなレベルがあるんだ、ということを充分理解しておく必要がある気がします。プロの舞台を見ていても、「なんでこんな舞台でこのお客さんたちはこんなに笑ってるんだろう?」と疑問に思うくらい、ウケの閾値の低い観客がいたりする。某日本オペ○○○協会の舞台とかを見ていると、信じられないほどレベルの低いギャグで、お客さんが大笑いしたりしていて、こういう客がいるからこの団体の舞台の質は向上しないんだなぁ、と妙に納得したりすることもある。概ね、オペラ関係者や音楽愛好家というのは、お芝居やお笑い演芸の経験値が低いですから、オペレッタ舞台のかなりレベルの低いギャグでも結構笑ってくれたりします。また、すごくヘンな話なんですが、「この内輪ネタが理解できて、笑っている私って、通でしょ?」みたいな、自己顕示のための笑いが起こる局面があったりして、これがすごく「嫌らしい」身内意識を感じさせることがある。やだねー。

それで満足してたらイカンのだよ。ほんとにそう思う。吉本のお笑い芸人たちの笑いが全国区になれるのは、日本一、すなわち、世界一厳しい観客である「なんばグランド花月(いわゆる「NGK」)」のお客様の、情け容赦ない罵声を浴び続けて、ぼろぼろになるまで鍛え抜かれるから。役者は観客によって磨かれる、という部分が確実にあるとするならば、身内という甘い甘いお客様や、「オペレッタ愛好家たち」の身内意識の中で満足していると、いつまでたっても「大向こうをうならせる」演技なんかできないんです。

人間、基本的に楽をしたい動物ですから、自分の演技に身内が温かい視線を注いでくれると、それで満足してしまいがち。加えて、我々には、以前この日記にも書いた、「アマチュアである」という「言い訳」が用意されている。ガレリア座の練習を重ねるたびに、自分に戒めるのは、「自分の中にいる観客が、きちんと満足しているか」という客観的な視点を常に持ち続けること。自分の中の閾値を上げること。「いやぁ、xxさんって面白いねぇ」と身内が言ってくれるたびに、「これはマズイ、全然ダメってことだ」と思うくらいが、大体ちょうどいいんです。