あんまり実感がないのよ

ファウスト」終わりました。でも、どうも、終わった、という感覚が薄いのだね。なんでだろう。色んな要因はあるとは思うのだけど、今まで以上に、自分の中で、ヴァランタンという役をやりきった、という感覚が薄いせいかもしれないなぁ。

別に、本番がうまくいかなかった、ということではないんです。本番会場というのは恐ろしいところで、今まで自分がやらなかった表現が出てきてしまう。それがマイナスに作用して、要らない力みになったり、過剰な演技になったり、ということもあるけど、今回はそれがいい感じに作用した気がしている。冒頭のカヴァティーナから、最後の死の場面まで、今までになかった感情の高まりの中で、過不足なくきっちり演じられたとは思うんです。

そういう意味で、多分、2009年6月21日という時点で、自分ができる精一杯のヴァランタンを演じられた、という充実感はある。そうなんだけど、何かしら、これで自分の中の「ファウスト」が終わった、という感覚がないのだね。もう一度、数年後にでも、このヴァランタンのカヴァティーナをしっかり歌いなおしてみたい。なんとなく、遊び道具でさんざ夢中になって遊んだんだけど、またしばらくしてから遊び直してみたいなぁ、と思うような。まだまだ遊び足りないような。そんな感覚。

今回、色んな人に、「一つステップを上がったね」と言ってもらえました。確かに、プロジェクトが始まった頃には決して歌いきれなかった歌を、最後までなんとか歌うことができた、という意味では、何かしら新しいものを身に着けることができたのかもしれない。それはそうなんだけど、一歩ステップを上がってみれば、その階段がはるか空の彼方までずっと続いているのがよりはっきり見えてきたような気がする。まだまだ、とりあえず歌いきれた、というレベルに過ぎない。歌の世界は、多分、まだまだずっとずっと上にむかって広がっているんだろうな、と心底思う。

自分がはるか天空へ続く音楽の階段をどこまで上っていけるのか、それとも、もうこれ以上は上っていけないものなのか、さっぱり分からないんですけどね。でも、44歳になって、今まで全然トライしたことがない発声法にチャレンジしてみて、それなりに変わったよ、と言ってもらえた、ということは、確かに自信につながっている気がします。まだまだ自分は変わることができる。変われるかどうかは、自分次第。要するに、自分を変えることができるのは、自分自身でしかない、ということ。

今は、とにかく色んな歌を歌ってみたい、と思っているんです。自分が今回、身に着けた発声法で、色んな歌を歌ってみたい。今まで歌ったことのある歌も、歌ったことのない歌も。とにかく色んな歌を歌ってみたい。そうすることで、また何か、別のものが見えてくるかもしれない。そんなことを考えています。

いつまでたっても上達しないヴァランタンを辛抱強く見守ってくれた音楽監督のNくん、多分、相当思い切ったキャスティングだったと思うのに、最後まで諦めずに付き合ってくれた主宰のYさん。期待に応えられたかどうか心もとないけど、なんとか精一杯努めました。ありがとう。

何より、今回の「ファウスト」では、共演者に本当に助けられました。粒ぞろいのソリストの中でも、明らかに音楽的力量が劣っている私に、「ここはこうした方がいい」「この響きをこう変えた方が」と、楽譜を眺めながらあーでもない、こーでもない、と試し続けた時間。あの時間の中で、本当に沢山のヒントをもらいました。顔芸で楽しませてくれたワーグナー役のHさん、あんまり絡むシーンはなかったけど、洒落っ気のある演技が素敵だったマルト役のOさん。一緒になって悩み続けたシーベル役のKちゃん、会社の同僚が、「シーベル役の人がものすごく上手でしたね」って言ってたよ。やったね。「できるよ、絶対できる」と励まし続けてくれたファウスト役のTくん。常に的確に、分かりやすいヒントで導いてくれたメフィスト役のNくん、いい話をすると泣いちゃうかもしれないけど、ほんとにお世話になりました。例によって一瞬の出演シーンを、お友達と一緒に見事に演じきった我が娘にも、ありがとう。いつも遅くまで練習につき合わせてごめんね。

そして何より、マルガレーテという難役を最後まで歌いきった我が女房どの。本当にお疲れ様でした。一つ一つの音符、母音、子音の隅々まで、突き詰めて突き詰めて作り上げた役だったね。衣装まで自分で手作りしたのも、役へのこだわりだったのかな、と思います。いつもあなたの背中を見て、追いかけても追いかけても届かない気がしているけど、いつか、一瞬でも、あなたと同じ音楽を感じられたらいいな、と思っています。その日まで、ご指導ご鞭撻、なにとぞよろしくお願いいたします。

あいにくの悪天候の中、1000人を越えるお客様が会場を埋めてくださいました。それだけのお客様にお聞かせするには、まだまだ発展途上の拙いものではありましたけど、これからまだまだ精進を重ねていきたいと思います。ご来場、本当にありがとうございました。

また一つ、自分自身の視界が広がったような、素敵な舞台が終わりました。44歳の中年男の挑戦はまだまだ続きます。次は8月の「南の島のティオ」朗読パフォーマンス。今回身に着けたものが、次の舞台でさらに広がっていきますように。舞台っていいなぁ。ほんとにいいなぁ。