無名性とモラル

昨夜、女房と、最近話題の給食費不払い問題の話をしていた。ヘンな話だよねぇ、と言い合っていたら、女房が、「給食の時間に、子供に『いただきます』と言わせないでほしい」っていう親がいるんだって」という話をする。なんだそれ?、と聞いてみたら、「給食というのは、当然与えられるべき権利であって、『いただきます』なんて卑屈な姿勢で食べるものじゃない」、という理屈なんだと。しばし呆然。

食育、なんて話がよく語られますけど、話はそれほど簡単じゃないのかも、と思います。日本人という国民全体のモラルが下がっている。でもそれって、いろんなモノが名前を持たなくなっている、無名性、ということと無縁じゃないんじゃないかな、という気がするんです。

ちょっとこんなことを考えてみましょうか。私の家のご近所に、自家製コロッケを売っているお宅があったとします。そのお宅の娘さんと、私の家の娘は幼稚園の同級生だとします(フィクションですよ)。当然のように、家族ぐるみのお付き合いで、私は、コロッケ屋さんの家族の名前を全員知っている。

同じように、私の家のご近所に、コンビニがあるとします。ここで、大地震が起こりました。みんな避難して、街は空っぽ。私はちょうど出勤中で、会社からずっと歩いて帰ってきた。もうへとへとです。家にたどり着いて、家族の避難先が確認できて、そこに向かおうとする。腹が減って仕方がない。見ると、コロッケ屋さんの店頭に放り出されたコロッケがある。その脇のコンビニの店内はからっぽで、商品がそのまま並んでいる。さて、どうするか?

その場にならないと分からない、というのはあるんですけど、たぶん、コロッケ屋さんからコロッケをもらおう、と思ったら、私は代金を置いていくか、避難所で会った時にお代をちゃんと払おう、と考えると思うんですね。でも、それより、コンビニの店内に入って、商品を黙って失敬してしまう、という確率の方が高い気がする。

こういう感覚って、たぶん私だけの感覚じゃないと思う。言いたいことは何か、といえば、現在日本に流通しているさまざまなモノに、「名前」がついていない、ということ。「オレの知ってるあの人が作ったモノだ」とか、「オレが知っているあの人の店の売り物で、これを売ることであの人は生活しているんだ」という感覚ではなくって、誰だか分からない何かしら非人間的な工場で大量に作られ、誰だか分からない大企業という無個性なものがそこから利益を得ている、極めて画一的な製品である、ということ。そういう「名前」や「個性」をもたないモノに対して、人間は愛着も持たないし執着もしない。結果として、感謝したり、尊重したりする気持ちもなくなる。人が誰も管理していなくて投げ出してあれば、黙って失敬してもいいもの、という風に見えてしまう。

子供たちの目の前に並ぶ給食の食べ物は、給食のおばさんたちが丹精こめて作ってくれたもの、とは限らない。セントラルキッチンで機械が器用に丸めたハンバーグを、給食室で解凍しただけかもしれない。そもそも、子供たちの自宅で食卓に並んでいる食べ物自体が、そういう、無個性・画一的な「モノ」ばかりになっていないか。そういう「モノ」に対して、感謝の気持ちをこめて「いただきます」ということができるだろうか。

「いただきます」という言葉は、食べ物の原料を作ってくれたお百姓さん、それを料理してくれた方に感謝する、という意味の言葉。決して、「卑屈な言葉」でもなんでもない。でも、原料の作り手は中国大陸の大規模農家、加工は郊外の大規模工場のセントラルキッチン、家の人はそれを電子レンジで解凍するだけ、という状況に対して、感謝しろ、といっても無理なんじゃないかな。「いただきます」という言葉には、自分を生かしてくれる食べ物、その原料となって死んでいったたくさんの生き物に対する感謝、という意味も含まれているんだけど、それを子供に理解させることはすごく難しいことだし、変に頭でっかちな最近の子供は、「人間が食べるために品種改良を重ねて作られた作物や家畜なんだから、人間が食べてやることにそっちこそ感謝しろ」なんてヘリクツを並べかねない。

もっと言ってしまえば、さっきのコンビニの例のように、商品だけでなく、その商品を自分に届けてくる流通の部分までもが、無個性化・画一化していくと、全ての「モノ」に対するモラルがどんどん低くなっていく気がする。それを盗んだとしても、さして心が痛まない。もっと分かりやすい例で言えば、友達がものすごく大事にしているお母さんの手作りのお人形を盗む、という行為と、コンビニの店頭にある1本100円のボールペンを万引きする、という行為の間には、明らかに悪意の質に差がある気がする。

もちろん、万引き行為を是認しているんじゃないですよ。大量生産大量消費、全てが画一化されている世界において、「モノ」への尊敬や愛情と、モラルを維持していくことの困難さについて語りたいだけ。人の物を盗むのは悪いこと。人のくれたものに感謝するのは当たり前のこと。でも、その「人」の姿が希薄になってきた時に、そういう当たり前のモラルを維持していくのはすごく大変。

そう考えていくと、とにかく子供のころに、そういう「人」の姿がはっきり見える「モノ」にどれだけ触れることができるか、ということが大事な気がしますよね。先日の日記に書いてたような、田舎のおじいさんおばあさんから送られてくる、産地直送の美味しい食べ物。誰かが心をこめて贈ってくれたプレゼント。そういう「特別なモノ」を受け取る機会を増やしていくこと。それを受け取るたびに、きちんと感謝することを教えること。そういう経験を重ねていけば、溢れる無個性なモノの中にも、そういう作り手の努力や、売り手の愛着を見つけることができるようになるかもしれない。もちろん、その前提として、そもそもあまり「モノ」を安易に与えない、ということも大事だと思うんだが。

でも実は、これって「モノ」に限った話じゃない。現代社会においては、家族以外の他人は全て、同種の「無名性」を持っている。どこの誰だか分からない他人が闊歩する大都会の駅の中で、どこまでも傍若無人に振舞う若者や団塊世代のオジサンオバサンたちのモラルの低さ、というのは、実は全てが「名前を持たないモノ・ヒト」と化していっている大都会の環境への適応能力不足、というところに帰着しないかしら。たとえば、同じ無礼なオジサンでも、自分の知っている会社の人の前で、同じみっともない行動が取れるか、というと、違う気がするんだよね。もちろん会社の中で、知っている人ばっかりの中で恐ろしく失礼なオッサンやら若者だっているんだけどさ。これが上司や部下だったりすると本当に不幸なんだ・・・あれ、結局、職場の愚痴になっちゃった・・・