「丘の上の向日葵」〜中年男の夢、中年女の現〜

昨夜、自宅PCのメール環境を整備終了。光Oneの導入はまた後日になりますが、これでネット環境は完全復活です。DIONの24時間サポートのカスタマーセンターのお兄さんがとても親切で丁寧だったのでいい気になって、ついでに私の個人メールアドレスまで新たに取得してしまった。これから広報していかねば。ガレリア座のHPもどんどん更新しないとねぇ。

今日は、ちょうど今日読み終えた、山田太一さんの「丘の上の向日葵」の感想を。多少ネタバレの記述があるので、ドラマも本もご存知ない方は、ご注意ください。

活字中毒の私としては、数冊の本を並行して読む、ということが多いです。図書館で借りた本を読む傍らで、自宅の本棚にあった文庫本から、女房の蔵書で、私がまだ読んでない本を暇な時間に読んだりする。この「丘の上の向日葵」もそんな一冊でした。一気に読了。

ドラマの方は全然見てなかったので、純粋に、この本についての感想になるのですけど、すごく上質なホームドラマ。普通の家庭、という存在に、アンチテーゼとしての異邦人が入り込んできた時に、家庭の中に生まれる心の波立ち。

面白いなぁ、と思った点はいくつかあります。1つめは、家庭という存在に対する「アンチテーゼ」として登場する「矢部母子」という設定の見事さ。こんな母子が存在するはずはない、という非現実的な母子なんだけど、非現実的だからこそ、現実=普通の家庭、という存在に対する強烈なアンチテーゼでありうる。しかもこの母子が、自分たちを非現実的な存在にするために必死に努力している普通の人間である、という点で、「ひょっとしたらこういう人もいるかも」と思わせる巧みさ。「そういうのって普通で面白くないじゃん」と言いながら人間的な感情を遠ざけようとする息子のセリフに、この母子の意味づけが明確に現れている。

普通の家族でいること、現実的な家族でいることを完全に拒否しようとするなら、普通の家族と接点を求めてはいけないのだけど、この母親は、自分の中の性的衝動を抑えることができずに、主人公の中年男に近づいてくる。そこで、主人公の所属している普通の家庭と、この「非日常的な家庭」の間にさまざまな波風が立つわけだけど、ここでもう一つ、面白いなぁ、と思ったのが、普通の家庭の側の象徴として存在している、主人公の奥さんの描写。

この奥さんは、主人公の中年男が、別の女と「ただお話をしている仲のよい友人になった」という状況に対して、ものすごく拒否反応を示す。本やら何やらを主人公に投げつけて荒れ狂い、どうしても受け入れられない、と何度も繰り返す。でも、主人公がその女と肉体関係を持ってしまった後、逆にものすごく優しくなるんですね。

そんな奥さんの変化に主人公はすごく戸惑うのだけど、こういう所に、山田太一さんのドラマツルギーの深さが現れている気がする。男と女が、性欲という自然の欲求を遮断して、いい友人として付き合いましょう、という虚構=非現実に対して、「そんなことってありえないと思う」と何度もつぶやく奥さんには、男女の現実、人間の現実ということがすごくよく見えているんだと思う。だからこそ、その虚構を維持することに失敗して、自分の夫と別の女が肉体関係を持ったとき、この奥さんは一種、「安心」したのかもしれない。

自分の夫が、非現実的な別の世界に連れて行かれる恐怖や怒りよりも、性欲に流されて他の女と浮気をするしょうもない中年男、という、極めて現実的な存在=自分の側の世界の人間になってくれた方が安心感がある。そういう奥さんの心理描写が、なんだかすごいなぁ、と思った。

男とか、若者っていうのは、そういう非現実=虚構に弱いんですよね。主人公と一緒になってこの「非日常的な母子」に惹かれてしまうのが、主人公の高校生の娘っていうところも、深い洞察だなぁ、と思う。普通の家庭の構成員の中で、虚構に魅力を感じることができないのは母親だけ。でも実は、この母親の持っている視点こそが、現実世界で生き抜いていくための地に足ついた知恵だったりする。

男はいつまでも夢を見るし、女は常に現(うつつ)に生きている。そういう男女の根本的な視点の違い、みたいなものまで、しっかりと描きこんだホームドラマの佳品・・・という感じがしました。このドラマ、放送されたものを全然見てなかったのですけど、ネットで調べてみると、葉月里緒菜さんの女優デビュー作なんですねぇ。島田楊子さんと筒井道隆さんが「非日常的な母子」、というのはすごくしっくりくるなぁ。主人公の小林薫ってのは、まぁ無難な感じがするけど、奥さん竹下景子ってのはちょっと安易な感じもしないでもない。安易かもしれないけど、竹下さんには確かに、非常に現実的ないい奥様、というオーラが出てるよねぇ。