「シン・ゴジラ」〜言うことないっすよ、と思いつついっぱい言う〜


シン・ゴジラ」を1週間で3回見ました、と言っても、周りの人があまり驚かない。要するにそういう人が周りに一杯いる、ということなんだよね。エヴァンゲリオンの衒学志向の情報過多状況が、そのままゴジラの世界で再現。1回見ただけでは絶対に処理しきれない情報量の多さと、それをエンターテイメントとして成り立たせてしまった剛腕。総監督・脚本・編集からコンセプトデザイン、音像設計まで一人でやってしまった庵野秀明のプライベートフィルム。さすが、エヴァンゲリオンを社会現象にした庵野秀明、今回はゴジラを社会現象にしたか。まさにエヴァ現象の再来、とも言うべきカルト映画の誕生。

インターネット上にはこの映画に関する大量の評論が掲載されていて、ヲタクから政治評論家まで、様々な方々が様々な角度で語ってらっしゃるので、正直私ごとき中途ハンパなマニアが何か語る部分なんかないんだけどね。なんていいながら、色々書いてしまうところがヲタの性。とはいえ、そんなにアカデミックにならずに、なるべく個人的な感想だけにします。他の方々が既に語っていることとの重複が絶対あると思うけど、許してくださいまし。あ、ちなみにネタバレ記述だらけなので、未鑑賞の方はご注意ください。
 
<CGの進化の歴史をなぞった?>

最初に登場したゴジラのCG表現を見た時には、実はちょっとがっかり。冒頭のしっぽのCG、エラから血を流しながら進む肺魚形態ゴジラのCG、それが直立歩行形態に進化するシーンのCG表現とかは、非常に「CGでございます」という感じがして、日本のCGってやっぱりこのレベルなのかしら、と思った。とはいえ、最初の上陸シーンの描写はまさに311そのもので、そういう意味でのインパクトは半端なかったんですけどね。

でも、後半の最終形態ゴジラのCG表現の完成度の高さを見ているうちに、ひょっとしてこれ、わざとそういう「ちょっと古臭いCG表現」を取り入れたのか、と疑り始める。ゴジラの進化に合わせて、CG表現自体も進化していくという、マニア向けの仕掛けか?そう思ってしまうこと自体、マニアのカリスマ、庵野秀明のマジックに引っかかっているのかもしれないけど。
 
<IMAXは役者さんにつらいねぇ>

普通上映とIMAXで見ました。石原さとみさんのいい匂いが楽しめるという4D上映は見なかった。IMAXと普通上映の差、というのはあんまり感じなかったですね。3D映画でもない(3D映画にする必要もないと思う)し、伊福部昭のモノラル音楽のシンプルな音像が大変よいので、わざわざIMAXで見ることもないかなーという感じ。

ただ、この映画はとにかく役者さんの顔のドアップが多いので、IMAXのでかい画面で見ると、毛穴から髭剃りあと、小さな吹き出物まで精細に見えちゃうんですよね。役者さんにはかなりつらい映画だなーと思った。もちろん、膨大なセリフと情報量を切迫感あふれる表情で観客に伝えていく手法として、顔のドアップの多用は無茶苦茶効果的だったですけどね。庵野さんがエヴァで取り入れた「明朝体の大文字で画面を覆い尽くす」表現に通じる、「言葉自体の持つ説得力」を前面に出した演出。
 
<虚構は現実の鏡像>

現実X虚構、という名キャッチコピーは、現実日本にゴジラという虚構を投げ込むことによって生まれるポリティカル・フィクションをドキュメンタリーの手法で撮った、というこの映画の本質を見事に言い表している、という評論があって、その通りだなぁ、と思う。その前提には、映画は結局、現実社会を映す鏡だ、という絶対真実があって、映画に限らず、どんなフィクションもファンタジーも、現実社会の影にすぎない、という、あらゆるパフォーマンスアートが持つ絶対的な制約にすら言及したキャッチコピーのようにも思えてくる。

一つの例として、特撮映画というジャンルで何度も描かれてきた、怪獣、または巨大な災厄によって都市が徹底的に破壊される、という描写にフォーカスしてみる。映画で描かれる以上、その破壊はあくまで虚構(フィクション)であるのだけど、そのフィクションを、東京大空襲という現実の破壊(リアル)の鏡像として描いた初代ゴジラは、その表現の後ろに圧倒的に存在したリアルの重さ故に、歴史に残る作品となりえた。しかしその初代ゴジラから後の特撮映画では、「ミニチュアで精巧に再現された作り物の都市の破壊」というフィクション性が強まってきて、その破壊自体から生じるカタルシスを楽しむ、という、娯楽性の高いパフォーマンスに変化していく。怪獣映画を中心とした特撮映画が、娯楽性を強めていくプロセスと、「都市の破壊」という表現のフィクション性が高まっていくプロセスは比例する。

そのフィクション性をリアルに引き戻したのが、阪神淡路大震災シン・ゴジラ同様、特撮映画の歴史を変えたと言われる平成ガメラシリーズにおける「都市の破壊」の表現には、阪神淡路大震災の鏡像としての描写が各所で見られる気がしています。そして、シン・ゴジラは、まさにリアルの大災厄であった311の鏡像として登場する。冒頭のゴジラ上陸の描写が、311と重なるのはもちろんですが、放射能汚染による除染の問題、住民避難の描写と、311が東京で現出する恐怖とリアリティがこれでもかこれでもかと盛り込まれていく。そして極めつけは、ゴジラ凍結のための血液凝固剤の注入シーン。これはもう完全に、福島原発冷却のために出動した東京消防庁ハイパーレスキュー隊の活躍をそのままなぞっていて、涙なしに見れない。
 
<予言映画として>

311の鏡像、としての表現をさらに超えて、「311の災厄が東北ではなく東京で起こった世界」を描いたという意味で、シン・ゴジラの先鋭性はさらに高まる。もっと具体的に言ってしまえば、この映画は、近い将来に必ず起こると言われる首都直下型地震による東京圏の壊滅に対する、日本人の対応を予言した映画、と言えなくもない。同じ樋口監督の「日本沈没」が、個人のヒューマンドラマにフォーカスしすぎて311の予言映画になりえていなかったのに比べて、シン・ゴジラは徹底的にヒューマンドラマを排除しているおかげで、首都直下型地震が発生した場合のポリティカル・シミュレーション映画としても見ることができる気がしています。360万人が生活拠点を失うような、そんな災厄にならないことを祈るばかりですが。
 
<個人的なツボ>

ちょっと固い話になったので、少し柔らかめの話に戻ります。ネット上で大人気の巨災対の安田さんと尾頭さんには、一緒に見に行った娘ともども私もツボにはまりまくり。でも、塚本晋也さんの演じた間教授も結構好きでした。「鉄男」の頃に比べると随分いい感じにお年を召したなぁ、という感じだけど、相変わらず、こういう尖がったキャラやらせたら最高。そういえば樋口さんが関わってた「さくや妖怪伝」でも、むっちゃ尖ったキャラやってらっしゃったけど、その流れのキャスティングかしらん。岡本喜八さんの写真だの、原一男さんと犬童一心さんと緒方明さんが御用学者役で並ぶシーンだの、映画監督さん達へのオマージュも含めたカメオ出演もツボ。

國村隼さんの「礼はいりません。仕事ですから。」など、泣けるセリフも多数なんですけど、一番泣けたのはなんといっても在来線。あの在来線の大活躍というのは、「この国の底力は現場にある」という矢口のセリフを体現している、という評論があって、なるほどなぁ、と思う。日々、時刻表通りの運行を守れる日本の鉄道の現場力が、ゴジラも倒しちゃうんだねぇ。京急電鉄は大変お気の毒だったが。
 
というわけで、いっぱい語っちゃいましたけど、もう語らないです。でもまた見に行っちゃうかも。間違いなく、歴史に残るすごい映画ですけど、なんとなく、続編は作らないでほしい気もします。初代ゴジラが続編が作れたのは、特撮技術がまだまだ未熟だったからだし、平成ゴジラが続編をいっぱい作れたのは、平成ゴジラの一作目が駄作だったからだよねー。シン・ゴジラはこれで完結している気がする。これで終わっとこうよ、東宝さん。