母音って大事なんですねぇ。

金曜日、新宿オペレッタ劇場の練習に。ソリストの中原和人さんが合唱練習に付き合ってくださる。中原さんはソロ部分の他に、私と同じ合唱のバリトンパートを補助してくださることになっています。後ろからすごくいい声が聞こえてくると、自分も上手になったような気分になって、ものすごく歌いやすかった。もちろん、ここで力んじゃいけなくって、その「いい声」にあって自分にないものをきちんと分析しながら、「いい声」に合わせていく努力をしないといけないんだけどね。

話は少し変わって、昨夜、女房が偶然つけた芸術劇場で、加藤健一事務所の「詩人の恋」を放送していました。私は途中から見たのですが、思わず最後まで見入ってしまう。ものすごくシリアスな物語なんだけど、それを適度なユーモアのオブラートに包んだ、相変わらずの職人芸。

加藤健一さんが舞台上でクラシックの歌を歌うお姿は、「レンド・ミー・ア・テナー」という舞台で生で拝見しています。もう10年近く前の話なのだけど、久しぶりに加藤さんの歌を聞くと、すごく上手になってらっしゃることに驚く。この「詩人の恋」という舞台は、加藤さんが「審判」と並ぶ一つの大きなレパートリーとされているようで、この舞台のために声楽のレッスンも欠かさず続けてらっしゃったそうです。継続は力なりってのは正しいなぁ。

その加藤さんの歌唱や、共演されていた畠中洋さんの歌唱を聞いて、中原さんの歌声の話なんぞを女房とつらつら語る。そのうちに、「きちんと鍛えられた声楽の声と、素人っぽい声ってのは、どこが大きく違うんだろうねぇ」という話になる。

音程、というのはもちろん最も重要な要素のひとつで、音程がしっかり決まらないと素人くさく聞こえる、というのはあるのだけど、音程のすごく悪い声楽家だっています。でも「多少音程が悪くても、曲のフレーズ感や、ここが大事、という全体像をぱっとつかむ構成力、というのがまずは大事なポイントなんだよね」と女房が言う。ヘルマン・プライだって、音程が悪いことで有名でしたけど、多少音程が悪くても、彼の歌のフレーズ感や語感の素晴らしさは余人をもって代えがたい魅力だった。あと、女房と私で一致したのが、「やっぱり、母音が大事だよなぁ」という点。

最近、女房はいろんな人の歌を聞きながら、「勝負できる母音を持っているってのは強いよね」とよく言います。北島三郎さんの歌のあの晴れやかさと艶というのは、彼の「ア」の母音が、誰も真似できない素晴らしい開放感と伸びのある「ア」の母音である、という要因が絶対大きい。確かに、「おじゃる丸」のオープニングテーマとか聞いていて、最後に、「かえろうかぁああああ」とロングトーンで引っ張るときの「ア」の母音とか、あんな「ア」で歌える人はいないよねぇ。女房に言わせると、「いい歌手というのは、誰にも真似できない素晴らしい母音を持っているものなんだよね」だって。

それぞれの母音をきちんと美しく響かせることができる、というのが、声楽的な声と素人歌唱を分ける大きな要因の一つ。でも、その中でも、「ウの母音で一番差がつくよね」というのが女房の見解。実際、新宿オペレッタ劇場で、中原さんの歌を聞いたとき、一番感動したのは、深みと明るさのバランスが見事に取れた、実に美しい響きの「ウ」でした。ああいう「ウ」が出せればなぁ。

私も、レッスンを受けるとしょっちゅう、「ウ」の母音が「イ」に近い、へらべったい響きになっている、と注意されます。普段しゃべっている口先だけの「ウ」で、そのまま歌ってしまうんだよね。よく声楽では、「ウ」をもっと「オ」に近くしなさい、といわれるのだけど、そればっかり意識していると、今度は飲み込んだような、こもった感じの「ウ」になってしまう。深みもあり、でも響きが明るく、そしてはっきりと「ウ」に聞こえる母音で歌うっていうのは、相当ハードルが高いこと。

日本語には「あいうえお」の5つの基本母音がありますけど、日本語の中にも少しずつ違う母音がある。東北弁などの方言にはあきらかに「ウムラウト」系の母音がありますし、標準語の中にも、単語や文章に応じて、同じ母音でも微妙に異なる発音になる。歌を歌らしく聞かせるために、同じ母音でも違う響きを作らないといけない。以前、女房が、近藤政伸先生の指導を受けたときに、「そこのアと、ここのアは、同じフレーズの中でも全然違う響きのアにしないと、日本語として客席に届かないよ」という感じで、一つのフレーズの中の一つ一つの母音を丁寧に洗いなおす作業をされたことがあったそうです。クリアな日本語歌唱を目指すためには、フレーズの中の母音の処理の仕方、というのがすごく大事になってくるんですねぇ。