「ひまわりの祝祭」〜ピカレスク・ロマン・ハードボイルド〜 「花も刀も」〜空回りする純情〜

先日、rangelさんが薦めてくれた、藤原伊織さんの「ひまわりの祝祭」を読了。

先日の日記で取り上げた「てのひらの闇」同様、くたびれた中年男が主人公。しかもこれが無類の甘党。しかしこれが、かつて天才といわれた画家で、射撃の名手でギャンブルの天才、と、これまた、「テロリストのパラソル」「てのひらの闇」に引き続き、中年男がワクワクする設定じゃないですか。

「ハードボイルド」の条件としての、簡素で乾いた文体と、洒落たセリフ、そして何よりも、主人公がひたすらにストイックで、自分のこだわる真実に向かってまっすぐに突き進んでいく姿勢。そういう正統派ハードボイルドの基本路線をきっちり踏襲しながら、この「ひまわりの祝祭」には、ゴッホの「ひまわり」を巡る美術史ミステリーの側面と、数々のスタイリッシュな犯罪者が活躍する「ピカレスク・ロマン」としての側面が盛り込まれていて、実に贅沢な一品です。

個人的には、「てのひらの闇」同様、私の頭の悪さも手伝って、最後のどんでん返しが中々腑に落ちなかった。意外な人物が犯人、というのは推理小説の基本なんだけど、そこで延々と、事情の説明が加えられるのはあんまり好みじゃない。そういう消化不良な感想もないわけじゃないんだけど、それ以上に、登場人物たち、とりわけ主人公を取り巻く数々の犯罪者たちが魅力的で、ぐいぐい読ませる。特に「原田」という中年男のキャラクターが秀逸。最後の最後になって、実はこれは恋愛小説だったんだ、というどんでん返しもいい。愛する人の心の平穏をひたすらに願った女の思いと、彼女の死後、やっとその思いに答えることができた男の純情。
 
一方で、山本周五郎さんは相変わらず読み続けていて、今回は、「花も刀も」を読む。周五郎さんには、「樅の木は残った」という傑作があって、従来、歌舞伎や浪曲で描かれていた有名な人物を、別の側面から全く違う人物像に造形する、というアプローチで成功しているのだけど、「花も刀も」も、天保水滸伝で有名な平手造酒の若き日の物語。ひたすら無欲に、ストイックに剣の道を生きながら、偶然や誤解によって堕落していく青年像。

この短編集に収録されていた、「源蔵ヶ原」という短編が、「ひまわりの祝祭」と同じようなモチーフを題材にしていて、これはまあ偶然なんでしょうけど、一つの普遍的なテーマなのかなぁ、という気がしました。純情も、空回りが過ぎれば悪に落ちる。でも悪に落ちたからといって、その純情自体が責められるだろうか。「花も刀も」同様、どんな人間にも魂はある、という、周五郎さんの人間に対する愛情に溢れた一品。

一番面白かったのは、「ためいきの部屋」という、大正期から昭和初期の映画館を舞台にした短編。物語の面白さもさることながら、当時の映画館という場所が、弁士や伴奏音楽奏者、ソプラノ歌手などの「芸術家」が日銭を稼ぐ場所だった、という描写が新鮮だった。トーキー映画が登場するまでは、映画という娯楽を通して、庶民が「生の音楽演奏」に触れる機会があったんだね。トーキーが弁士という職業を滅亡させた、という歴史は認識していたのだけど、同時に、音楽演奏者の大きな収入源も奪ってしまっていた、という点については今まで認識していなかった気がする。逆に言えば、大正期から昭和初期、各地の映画館を中心として、まさしく「ラ・ボエーム」のような芸術家のコロニーが存在していたのかもしれない。やっぱりこの時期の日本って、面白そうな気がするんだよねぇ。

忙しい日々ではあるけれど、活字中毒の私としては、心に響く本を探して、また図書館通いです。さて、次はどんな本を読もうかね。