「町奉行日記」〜時代と本・映画表現と本〜

読み進んでいる山本周五郎の本、今回は、「町奉行日記」を読了。例によって感動するのだけど、今回は少し違った観点での感想です。

女房に、「山本周五郎はいいよぉ」という話をしたら、「でもあんまり文学界での評価の高い人じゃないよねぇ」と言われる。そういえばそうかも。直木賞はご自分から辞退されたようですが、基本的に「大衆小説である」「お涙頂戴の古臭い義理人情小説」などという評価も多かったようです。時代も関係しているのかもしれないね、という話をする。山本周五郎が最も脂が乗っていた昭和30年代から40年代にかけての時期は、戦後の思想混乱期にあって、日本文学が様々な実験を行っていた時期ですよね。安部公房が活躍したり、私小説が芸術的であると評価されたり。そういう中にあって、山本さんの描き出す、人間への信頼、優しさといった感動的な物語は、そのオーソドックスさ故に保守的とみなされたかもしれない。前衛的、破壊的であることこそ芸術的である、という価値観からすれば、山本周五郎世界の予定調和感は確かに保守的だし、安易な感動として低く位置づけられるかもしれない。

時代において先鋭的であることで、かえって永遠である作品ももちろんあります。でも、山本周五郎世界の素晴らしさは、時代を越えて、どの世代にも同じような感動を与えてくれるところ。そういう物語を描き出せるということは、人間存在に共通する感情の基盤のようなものを、山本周五郎さんがしっかりと把握している、ということだと思います。同時代による評価がどうあれ、周五郎作品が現代の我々にとっても永遠に感動的である、というのが、この作家の真価を表していると思う。

どの作品も素晴らしいので、一言ずつ。「土佐の国柱」は、名作「樅の木は残った」の雛形のようなお話。「晩秋」は、これは東京裁判の物語のように読みました。敗戦という現実にあって、自分自身を断罪することで、次世代に希望をつなごうとする旧世代の物語。「金五十両」は、人間として生きていくために必要な「信頼」ということについて感動的に描き出した寓話。「落ち梅記」は、友情に殉ずる崇高な自己犠牲の物語。あんまり切なくて涙なしに読めない。「寒橋」は、女性の心理描写が見事。「わたくしです物語」、全編が落語。電車の中で読んでいて笑いをこらえるのに苦労しちゃいました。「修行綺譚」も滑稽話。周五郎さんの魅力は、このユーモアですねぇ。「法師川八景」、ヒロインの毅然とした生き方、それをさりげなく支える温かい視線。男女の深い愛と信頼を、正面からではなく、側面から端整に描き出した名品。「霜柱」。親子の絆という永遠の人間関係が生み出す悲劇。

周五郎作品は非常に映像的だと思いますし、黒澤監督の「赤ひげ」「椿三十郎」などの名作もあります。しかし、いかに原作がよくても、映画がいい出来になるとは限らない、というのが、「町奉行日記」。市川昆監督の「どら平太」の原作。「どら平太」は見たのですが、絶対原作の方が面白い。巨匠4人による「四騎の会」の脚本にしても、周五郎世界を映像化するのは難しかったんですねぇ。映画が最後は大立ち回りで終わるのに比して、「町奉行日記」はどこまでも人間同士の信頼感のぶつかり合いで終わっていく。表面上起こっている事件についてしか描写されない「日誌」が、ユーモラスな効果を生むと共に、「人間社会というのは、表面的な事件じゃなくて、その裏にある人間同士の生の感情のぶつかりあいで動いているんだ」という確信を示している。そういう原作の基本軸が、派手な立ち回りでぶれてしまうのが、映画の最大の弱点。市川昆さんの映像はスタイリッシュなのだけど、最近の作品には往年のエネルギーが失われていて、テンポ感が悪すぎるのもしんどい。

周五郎作品は感動的だから、映像にしたくなるのは分かるんだけど、小説としてあまりに完成されているから、難しい素材ですよね。「赤ひげ」が成功したのは、原作の素晴らしさだけじゃなくて、原作にある人間存在への愛の深さ、という基本軸が映画でもぶれなかったことが大きいんじゃないか、と思います。あんまり基本軸にこだわると映画にならなかったりするしなぁ。小説の映像化、というのは、常に難しい課題ですよね。