「リヴィエラを撃て」〜浪花節的スパイ小説〜

高村薫さんの作品は、「マークスの山」を読んでいます。警察内部の組織の確執を、偏執的といっていいほどにリアルに描写しながら、過去の因縁に結ばれた男たちの悲劇を骨太に描ききった傑作。ちょっと「骨太」な作品を読んでみたくなって、その高村さんの「リヴィエラを撃て」を選んだのは、「マークス」のバタ臭い文体が印象に残っていたせいでしょう。

リヴィエラを撃て」では、おそらく意識的に、翻訳小説のような文体が選ばれているように思います。それが読みにくい、という読者もいるようですが、最初から、翻訳スパイ小説、と思って読んでみれば、そんな違和感はあまりない。むしろ、世界に通用する重厚かつリアルなスパイ小説、と読める。

「マークス」のときも感じたのですが、最後の謎解きの部分が弱くって、ミステリー小説として読むと肩透かしを食います。でもこの小説はむしろ、幼い時から運命としての死に取り付かれてしまった若者(ジャック・モーガン)の無常観を軸として、歴史と国家の謀略に翻弄されながら、個人としての尊厳を必死に保とうとする人々のドラマ、として読むのが正しい。そういう観点で読んでみれば、このジャック・モーガンの持つ無常観が、極めて日本的な無常観につながっていることに気づく。つまりは、翻訳小説のような体裁をとり、全体の中で日本が舞台になる場面は極めて限られており、国際的なスパイの暗躍を描きながらも、この小説が極めて日本的な小説であることに気づく。

幼い主人公が、憧憬と共に、どこか倒錯的な愛情を通わせる美しき男性ピアニスト、シンクレアと主人公の交情や、全体の人間関係の中に、骨太でありながら極めてロマンティックな感情が流れているところも、どこかしら日本的な感じがする。ハードな物語だし、ダーラム候のセリフはハードボイルド小説を思わせるユーモアと洒落っ気に満ちているのだけど、どこかに湿り気がある。ウェットな感じがする。「伝書鳩」がジャック・モーガンに対して抱く感情も、どこかウェットだし、様々な局面で親子の因縁が絡んでいるところも、日本的。

そういう日本的なウェットな感じと、主要な登場人物のほとんどが死んでしまうという恐ろしくハードなストーリ展開が、なんとなく深作欣二監督のヤクザ映画を思わせる感じもしないでもない。バランスを崩してしまうと浪花節になってしまうし、逆に振れるとただの殺し合い小説になってしまう。その微妙なバランスを保っているツボが、例によって偏執狂的に書き込まれたディテールと、「音楽」というところが面白かった。

シンクレアが、世界的に活躍する天才ピアニストである、という描写は、若い頃ピアニストを志したという高村さんの音楽に対する知識と感性によって裏付けられ、クライマックスのサントリーホールでのブラームスのピアノ協奏曲演奏会の描写に至って、音楽と物語が見事にシンクロする。そういう「音楽小説」としてみても、面白かった。そもそも、主人公のジャック・モーガンが到達した無常観と悟りの境地は、シンクレアと共に聞いたモーツァルトのレクイエムから得たイメージだ、というのも、なんとも泣ける描写になっている。

スパイ小説なのに、泣ける場面が多い、というのも、東映映画っぽいなぁ、って思うんですよね。一人ひとりの登場人物がすごく人間的でリアルに描かれているので、思わず感情移入してしまって、彼らの死の描写に冷静でいられなくなる、というのもあるんだけど、高村さん自身が、結構意識的に読者を泣かせにかかっている部分もある。

なんだか、この浪花節的な泣かせのテクニックとか、バタ臭い描写とか、タカラヅカ的に美しい男性同士の交情とか(シンクレアなんか、あまりに理想的な美男子だし)、関西エンターテイメントっぽいなぁ、と思ったら、案の定、高村さんは大阪のご出身だったのね。しかも東住吉区じゃないか。河内のど真ん中、ベタベタの関西ですがな。そう思うと、過剰なまでに情報量の多い文体が、心斎橋のあの過剰なネオンと重なって見えてくる。関西人的エンターテイメントの血ってのはあるんだなぁ、と、なんとなく納得した本でした。