「きもの」〜社会とひとの間にあるもの〜

幸田文さんを少し追いかけてみようと思って、2冊目に手をとったのが「きもの」。明治の知恵をきちんと受け継いだ幸田さんが書かれた「着物」の本、となれば、これは絶対面白いだろう、と期待。日ごろから和服に興味があるから、そういう観点でも楽しめるだろうと思って選んだ一冊。期待に違わず、ちょっと我が家に一冊常備しておきたくなるような、素晴らしい一冊でした。

明治から大正を生きた一人の女性の成長を、その成長の時々にヒロインが身につける「着物」に託して描き出す、という、その発想がそもそもすごいと思う。「着物」というのは、人間だけが身につけるもの。つまりは、社会的存在である人間という存在が、その社会における自分の位置や場所を規定するに当たって、ものすごく重要な役割を果たすのが、「着物」。従い、この物語は、ヒロインが成長するに従って接触する「社会」=「外界」との関係性の変化を描き出していくことになる。さらには、ヒロインの周囲の人々が身につける「着物」や、やりとりされる「着物」を描き出すことによって、ヒロインの周囲の人々の社会とのかかわり方、家族とのかかわり方が容赦なく描写されていく。

「着物」が、女性にとって、自分自身を飾るという別の意味を持つが故に、「着物」に対する女性の執着は、その女性の社会への向き合い方、心の持ちようを、そのまま正直に映し出す。結果として、女性を中心とする登場人物たちの「着物」へのこだわりを描くことで、その人々の心のありようが、見事にあぶりだされていく恐ろしさ。「着物」をめぐって決定的に決裂してしまう姉妹の感情。何気なく身につける「着物」がその人の人品を如実に表してしまい、それがそのまま、人間関係に影響してしまう恐ろしさ。そしてさらには、その人々が向き合っている社会そのものが、着物の向こうに透けて見えてくる着眼点の素晴らしさ。

この本の解説文に、「これは私小説とはいえない」という分析が延々と記述されていて、すごく奇妙な気分がしました。確かに、ヒロインと幸田文さん自身が重なる部分があるのは認めるけれど、この小説を「私小説」のカテゴリーに入れちゃったら、「私小説」じゃない小説なんかなくなっちゃうんじゃないかねぇ。というか、一時期、「私小説」の文学性についての議論が激しかった時期があったから、あえてこういう視点でこの本を分析せざるを得なかったのかもしれないけど。それは不幸な先入観だなぁ、と思う。

明治から大正にかけての一人の女性の成長を、「着物」に仮託して描き出すことで、その時代の空気や社会のありよう、家族のありようが見事に描き出されていく。小説家と社会の間に介在して、社会を描き出そうとする小説家の「言葉」と、人と社会の間にあって、その人の場所を決めていく「着物」が、構造的に重なっていく面白さ。

そして、この本の一つの圧巻が、後半になって人々を襲う、関東大震災の災厄。震災下を逃げ惑う人々の描写は、おそらくは幸田さんご自身の実体験と重なって、異様なリアリズムに満ちている。一つの決断、一つの選択が、生と死を分けるギリギリの極限状態の中で、ヒロインの目は正確かつ的確に周囲の状況を捉えて描写していく。個人的には、この関東大震災のシークエンスが、阪神淡路大震災のカタストロフと重なって、なんだか一番胸に迫りました。

でもなんといってもこの本の最大の魅力は、ヒロインのおばあさんというキャラクター。明治のモラルと知恵と、そして強い生命力にあふれたこのおばあさんには、幸田文さんの最大の教師だったという幸田露伴の影が見えるのだけど、そういう個人的な背景はぶっとばして、直接現代の我々に迫ってくる、このおばあさんの知恵のこもったセリフの重さ、やさしさ、強さ。震災で焼け出されても、風呂敷を仮縫いしたアッパッパを着て洗濯に励むおばあさんの姿に、なんだか喝采したくなるような、そんな爽快感をくれる見事な「明治の女」の生き生きした姿。

着物の着方や、選び方、着物を着る時の所作や、あるいは日常のさまざまな礼儀作法など、大正時代には生きていた「美しい国日本」のありよう。着物に興味を持つ者として読んでも、すごく勉強になりました。幸田さんのほかの作品も、また追いかけてみようと思っています。