地理・世界史・日本史

全国の高校の必修科目未履修問題、ほとんど2時間ごとくらいに対象になる学校の数が増えていっていますね。割と初期に、女房の母校である盛岡一高が、「岩手県隋一の進学校が」という形で取り上げられたものだから、女房ともどもこのニュースには注目。でもねぇ、ルール違反だ、とか、どうして学校はルールを守らなかったんだ、とか、受験優先の学校の姿勢が、とか、学校を責める論調も多いけど、「守れないようなルール自体に問題あるだろうがよ」と思っちゃうけどねぇ。

ただ、このあたりの教育論議にはあまり立ち入らないようにして、(というか、この手の議論は明確な正解というものがない世界だから…)ここではもっとバカバカしい話をします。

私はいわゆる共通一次試験世代で、文系でしたから、受験科目は、国語・数学・英語・社会2科目・理科2科目、の7科目から選択。社会の2科目を選ぶのに、日本史・世界史・地理A・地理B・政治経済・倫理社会の中から2つ選ぶ。理科の2科目は、化学・生物・物理・地学から2つ。

この科目選択で、どう選ぶかなぁ、というのを随分悩むわけですけど、私の出身校の理系の連中が好んで選んでいた社会の科目が、政治経済と倫理社会。覚えないといけない項目が少ない、という理由だったと思うんだけど、身の回りで、「倫社を選んでいるヤツは安易だ」という偏見があった気がするなぁ。世界史と地理、というのは親和性が高い、というので、選んでいる人が多かったと思います。今回のニュースでも、地理の授業をやれば、自然と世界史の授業内容を網羅できると思った、なんていう学校関係者の発言がありましたよね。

理科の2科目で、社会における倫社と同じような位置にあったのが、地学だった記憶あり。地学や倫社を選択しているやつは、どこか「変わりもの」扱いされた記憶があるんだよねぇ。なんでなんだろう。学問に貴賎はないのにねぇ。

こういう傾向ってのは全国共通なんでしょうかね。統計値とかを見たことがないのでよく分からないんだけど、全国的にみれば、どの科目も平均して選択されていたような気もするし、あくまで私の出身校に限った話だったのかもしれません。

私自身は、といえば、あんまり考えずに消去法で、苦手な科目を消していったら、残ったのが日本史・世界史・化学・生物、という組み合わせでした。日本史と世界史を両方取っているっていうのも結構少数派だった気がする。覚えることが多いですからね。受験のために一生懸命詰め込みましたけど、あれだけ覚えた年号とか、ほとんど全くといっていいほど覚えていない。イイクニ作ろう鎌倉幕府。そんなの誰だって知ってるっての。

結局、「自分は大きくなったらこういうことをやりたい」「とすれば、今のうちに、これとこれを学んでおかないといけない」という、自分なりの人生の工程表のようなものをキチンと持っていないと、科目選択というのは目の前の受験をクリアするための手段にしかならない、ということなんだよね。高校生の段階から、人生ビジョンを明確にせよ、なんてのは無茶な話なんだけどさ。でも、「そんなのは無茶だよねぇ」「高校生で人生決めるわけにはいかないものねぇ」と、子供のモラトリアム期間を長く長く用意しすぎる過保護な姿勢が、結局は偏差値で大学を決める傾向や、「とりあえず大学だけは出ておかないと、つぶしが効かない」といった安易な考え方につながっていくような気がするんだよね。

割と早いタイミングから、きちんと自分の人生ビジョンを持つこと。それが途中で挫折したり、変更されたりするのは当たり前、と腹をくくってしまって、敗者復活戦の仕組みをきちんと作ること。高校生にそんなこと期待するのは無理だよ、なんていう人も多いかもしれないけど、それはそれで、高校生をバカにしている気がします。私の身の回りでは、高校時代からきっちり、「オレはxxになる」と決めて邁進している連中が結構いました。「xxになるためには、今からこの勉強が必要。この勉強はあまり重要じゃないけど、やりたい勉強をできる大学に入るには、必要なことだからこれをやる。」という明確な目的意識を持っている連中が確かにいた。後から別の道に進んでしまった輩もいるけど、目的意識をもって進んでいくスタイルは変わっていない連中が多いです。

高校時代から、目標を定めて、その目標をクリアするために何が必要なのかを考え、実行していく、という行動スタイルを身に着けるのは意味がある気がするんだね。「今はまだ決めなくてもいいよ。早すぎるよ」なんて甘やかすよりも、そういう思考パターンと行動パターンを持った人を育てる方が、大事なような気がするんだけどなぁ。