甘えの構造そのに〜いかに責任を逃れるか〜

昨日、一般庶民は愚民である、という認識と、愚民である庶民を正しく導くために、サービスの提供者は彼らを手取り足取り、懇切丁寧に指導しなければならない、という、「甘えの構造」「過保護の構造」についてちょっと書きました。事故が起これば、それは、利用者側の不注意ではなくて、提供者側の安全管理責任に問題がある、という話。今日はちょっとその続きをば。

この話って、色んな方向に展開させることができると思うんです。最近やたら耳にする医療過誤の問題。病院で患者が死ねば、それは全部医療過誤だ、といきまいている弁護士さん。「弱者保護」という看板を掲げれば、全ての人が涙目になりながら、「行政は何をしているんだ」「強者は何をしていたんだ」「責任者出て来い」と激高し始める。でもねぇ、本当に「弱者」の側には全く問題がなくて、「強者」の側にしか責任と問題が存在しない、という議論を展開し続けていくと、ものすごく不毛な世界につながっていく気がするんだよね。要するに、責任を回避するためにどういうことをするか、という観点からしかモノが見られなくなってくるんじゃないだろうか。

製造物責任、という議論が出てきた時に、結構笑っちゃったんですけど、コンビニでもらう箸袋が一斉に、「つまようじが入っていますので、開封時にご注意ください」という注意書きを書くようになったんですよね。小さい字で。でもねぇ、こんな注意書きをいちいち読んでから、箸袋を開ける人がいますかね。つまりは、「もし怪我した人が怒鳴り込んできても、『ちゃんと注意書きがあるんだから、そちらの不注意でしょ。我々には責任はありません』って言い訳できる」という、言い訳の根拠にすぎないんじゃないかなぁ。

説明責任、ということではなくて、「何かあったときの言い訳」のために、どんどん情報量が過剰になっていく気がするんです。駅の構内の過剰なまでの案内アナウンス、というのも、事故が起こった時に、「ちゃんとアナウンスをして注意喚起をしていた。だからオレに責任はない」という言い逃れのためのもの。

そう考えていくと、この日本という国は、「いかに責任を取らないか」「いかに責任を問わないか」ということが、ものすごく重要な国なんだな、ということに気付く。いわゆる稟議制度、というのも、会社組織の中で責任の所在を不明確にするための制度、と言える。かつての「ムラ」が、強訴などの強硬手段に訴えるとき、全員が蓑傘をつけて頬かむりをして、「無名」のものに化身することで、個人の責任を不明確にしたのと同じ構造。連帯責任としての一家皆殺しは存在しても、個人が責任を取る、という精神構造そのものが、この国には存在してないのじゃないか。

サッカーのワールドカップで、クロアチア戦の柳沢選手のゴール失敗を指して、「あれは柳沢の責任じゃない。パスを出した加地が自分でゴールするべきだったのに、なぜか彼はパスをしちゃったんだ」と言う人がいるそうです。日本のフォワードがゴールを決められないのは、自分で決めようとしないで、人にすぐパスしちゃうからなんだって。ここにも、「自分が責任を取る」ということを回避する精神構造が見えないか。自分がシュートして失敗して責められるより、人にパスして失敗してもらえば、自分は責任問われないもんねぇ。

一蓮托生、とか、「死ぬ時は一緒だ」といった、「連帯感」や、仲間意識が賛美されるこの国においては、「個人の責任」というのは、問われることも恐ろしいことだし、問うことも難しいことなのかな、という気がします。例えば何か事故が起こったとして、その事故の被害者の不注意が大きな原因であったとしても、被害者の自己責任を問うのは、「弱いものイジメ」とか、「死者に鞭打つのか」という言葉で回避される。それよりも、事故の一方の原因となった組織(メーカーであったり、その事故現場の管理者であったり)の責任を問えば、「個人」ではなく、「組織」の責任に話をすりかえることができる。「ドアに挟まったxxちゃんがちゃんと注意しなかったのが悪い」というよりも、「そのドアを作った会社が悪い」と言えば、個人の責任じゃなく、「会社」というよく分からない「無名」の存在に責任を取ってもらえるからね。でも、本当は、一人ひとりがきちんと自分の「責任」において行動する自覚と、それが故の厳しい自己管理、自己規律を持って行動している社会の方が、よっぽど大人の社会だと思うんだけどなぁ。

ニュースを見ていると、最近、日本人は自分の責任をきちんと認めることがすごくヘタになってきてるんじゃないか、という気がします。犯罪者も、「オレのせいじゃない、オレをこんな風にした、家族が、社会が悪いんだ」という意識の強い連中が多い気がする。先日の和田教授の絵画盗作事件見てても、和田さんは最後まで自分の責任を認めようとしなかったもんねぇ。あそこまで、自分や世間に対して下手な言い訳・言い逃れを並べる神経ってのは、呆れるのを通り越して本当に不愉快だった。個人が本当に責任を取らない、取る気がない社会、というのが、最近の犯罪の凶悪化にもつながっているんじゃないか、というのは言いすぎかしら。

我々が舞台を作っていくとき、一人の失敗で舞台全体の空気が乱れてしまうことがあります。そんなとき、「キミの責任じゃないさ」と慰める声をかけてくれる人もいるかもしれない。でも、その言葉をそのまま受け止めてはいけないんだと思う。舞台上に立った瞬間、役者の全ての行動は、その役者一人の責任においてなされねばならない。演出家が手を取って導いてくれるわけでもない。別の役者がセリフをささやいてくれるわけでもない。舞台に出てしまえば、あとは自分でなんとか乗り切っていくしかない。そういう自覚と責任感を持った個人同士がぶつかりあって、初めて緊張感のあるアンサンブル、クオリティの高い舞台が産まれる。「誰かが助けてくれるだろう」と人を頼る役者、「失敗したってオレのせいじゃない」という言い訳役者、そういう自分で責任を取らない役者ほど、たちの悪いものはないんです。