子供をきちんと叱ること

先日、石橋メモリアルホールで、大久保混声合唱団の「その心の響き」演奏会の打ち合わせがありました。平日だったので、ついでに会社を1日お休みして、午前中、娘の小学校に授業見学に行ってきました。

以前にも書いたかもしれないけど、娘の小学校には授業参観日というのがありません。父兄はいつでも、時間があれば、教室に行って授業を見学できる。1時間目から3時間目まで、じっくり教室の後ろでクラスの様子を拝見させてもらいました。

入学直後くらいにも、一度見学させてもらったことがあるのですけど、その時期から比べても、子ども達が学校に慣れてきている感じが伝わってきて、面白かったです。先生が、「次はこれをしましょう」と指示しなくても、子ども達の方が、次は何の時間で、何をやらないといけないか、ちゃんと分かっていて、どんどん先に準備を進めていく。時間割が子ども達の生活にきちんと根付いている、という感じ。

子供のペースに合わせる、というのがこの学校の基本方針なので、一定のタスクをクリアしてしまうと、後は子供が、それぞれの課題ややりたいことを自分の席でやっています。お喋りや、歩き回る、というのはルール違反で、それは注意されるのだけど、他の子ども達に迷惑をかけなければ、後は自由。

その最低限のルールでも、やっぱり守れない子供はいて、落ち着きのない子供、隣のお友達にちょっかいを出す子供、色々います。落ち着きのない子供、というのは大体決まっていて、先生の注意もそういう子供に集中しているのだけど、以前見学させてもらった頃よりもひどくなっている子や、多少なり落ち着いてきている子や、様々。それでもクラスの子ども達は、そういう落ち着きのない子供に影響されるわけでもなく、きちんとルールを守って自分たちのタスクに没頭している。このあたりも、半年間の間の成長…なのかなぁ。

音楽の時間があって、音楽室に移動しよう、ということで、休み時間に、廊下に子ども達が並びます。先生が教室の中で、他の子供たちの面倒を見ていたとき、一人の「落ち着きのない子供」が、周りのお友達を、道具袋や拳骨で殴り始めた。「やめろよ!」とお友達が言うのだけど、益々エスカレートしていく。子供への注意は先生の役割だし、私が口を出す場面じゃないか、と、かなり逡巡したのだけど、さすがに見かねて、その子の手首をつかんで、「何やってるんだ」と注意した。

すると、その子は、「知らない大人が知らない子供に声かけちゃいけないんだぞ。この人、変なおじさんだ」と口答えしてくる。睨みつけたら黙っちゃったんだけど、そのセリフには結構考えさせられちゃった。

大人が子供を注意しない、注意できない世の中になっている…とは思います。子供を注意することで、親同士のトラブルになることも多い。知らない大人が子供に声をかけることを、子供自身に「気をつけるんですよ」ということも普通のこと。そういうリスクを回避するために、大人はどんどん、子供に注意をしなくなる、できなくなる。

私自身も、その子の手首をつかむ前に、相当葛藤がありました。学校は先生の領分だし、私は親とはいえ、一種、「部外者」ですから、「学校でのことは我々に任せてもらわないと困ります」なんて言われるかもしれない。「出すぎたマネをしちゃったかな」と思いながら、担任の先生に、「こんなことをしちゃったんですが、申し訳ありません」と一言声をかけたら、先生はにっこり、

「全然問題ないですよ。いいクスリになったと思います。」

とおっしゃってくださって、すごくホッとしました。

それでも、自分の中で、子供の喧嘩に割り込むときの、自分自身の葛藤や、逡巡について、すごく考えてしまった。子供同士のことにどこまで介入するのか、と言えば、大抵のことは子供たちに任せるとしても、直接的な暴力(言葉の暴力も含む)に対しては、毅然とした態度でNoを言う、ということが大事なんだ、と思います。でも頭では分かっていても、実際にお友達に手を上げている子供を見れば、しかもその子が、自分のそれほど知らない子供であれば、なかなか声をかけるのは難しいものだなぁ、と実感。

加えてちょっと不安だったのは、そういう親の行為が、「yyちゃんのパパって、ヘンだよね」なんて形で、子供社会における自分の子供の位置を不安定にするんじゃないだろうか、という心配。今朝、娘と一緒に学校に行く道すがら、娘が、「xxちゃんが、『yyちゃんのパパが、zz君のこと怒ったんだよ』って言ってたよ」と報告。「xxちゃん、『yyちゃんのパパって、ヘンだよねぇ』とか言ってなかったかい?」と聞いたら、「xxちゃんは、『yyちゃんのパパ、かっこよかったよ』って言ってくれたよ」とニコニコしていました。小心者の私としては再びほっとする。子供に「ダメ」をきちんと言うのって、結構難しいもんなんだなぁ、と思いました。私が小心者すぎるのかねぇ。