亥の年のこと

なんとなく、個人的な気分として、十二支っていうのにはそれなりの意味がある気がしています。12年たつと、人間結構人生の節目を迎える気がするんだな。12歳。24歳。36歳。48歳…と並べてみれば、なんとなくそんな気がするじゃないですか。

もちろん、これを、10歳、20歳、30歳、40歳って並べてみたって、そういう気はするから、本当に気分だけなんだけどね。12という数字自体が、2でも3でも4でも6でも割り切れる、時間にも使われている便利な数字、ということで、十二年で一つの単位を考えようとした…そういう「理屈」の背景は重々承知していて、それをオカルティックに捉える無意味さも分かっちゃいるんだけど、それでも、なんとなく、「十二年に1度、何かが起こる」という気分が抜けない。中でも、「亥の年」については、考えると妙に身構えてしまう感じが、個人的にあるんです。

多分そういう気分に大きな裏打ちを与えたのは、以前にもこの日記に書いていた、阪神大震災オウム事件が起きた1995年の記憶だと思います。これ以前に、荒俣宏先生の「帝都物語」を読んでいて、その中で、関東大震災が「亥の年」に起きる描写がある。「亥の年」というのは、色んな形で世の中が大きく変動する年だ、なんていう記述があって、さほど信じてもいなかったのだけど、1995年、まさに「亥の年」に、阪神大震災が起きた。それ以来、一時期の「ノストラダムスの大予言」のように、自分の中で、「次の亥の年には何が起こるのかしら」という気分が消えないんですよね。

そんなこと言ったら、世界が大きく方向転換した「9.11」が起こったのは2001年の巳年。でも、ネットで見ると、「巳年というのも結構色んなことが起こる年」という解説ページがあるんだね。1953年は朝鮮動乱、1989年はベルリンの壁崩壊…まぁ結局、毎年それなりに大きな事件は起きていて、これを後付で12年ごとにつなぎ合わせて、「どうだ、12年サイクルだ」と言っているだけのような気もする。実際、1995年の12年前、1983年ってのも、大韓航空機の撃墜事件や、日本海中部地震とか起きてる。それを称して、「83年には日本海中部、95年は神戸、では次は?」なんて言う、眉唾ものの「地震予知」記事とかもありそうだけど、何の根拠もないよねぇ。

なんでこんなことを書いているか、といえば、最近の北朝鮮の大騒ぎが、1995年直前のオウム真理教の大騒ぎに、なんとなく重なって見えるから。みんなが、「あいつらは危ない」と思っていて、「あいつらが絶対、松本サリン事件にも、坂本弁護士事件にも関わっている」と分かっていて、それでも、地下鉄サリン事件を防げなかった。いくら国連が躍起になっても、あの国の指導者が自らの政体に固執する(当然ですわな)以上、あの国の暴力を防げない、という意味で、1995年直前の不思議な無力感に共通するものを感じたりする。今回は一つの国家だから、集団としての規模感は全然違って、だからこそ余計に厄介なのだけど、なんとなくあの時代の、「何かが起きちゃうかもしれない」という不安感と、それを防げそうにない諦観のようなものが重なって見えるんだよね。

あんまりこういうことを書くと、よくある「カタストロフ待望論」みたいになっちゃうのがいやなんだけど、色んなところでそういう「このまま続くはずがない」という気分が蔓延している感じがする。アメリカの住宅需要の先折れリスクから、関東大震災の予兆、少子化問題、温暖化リスク…12年、というサイクルに意味があるかどうかは別として、大体10年〜12年くらいたつと、一つの社会システムが限界に近づいて、かなり大きな変動や変革が必要になる、という、社会学的なサイクルはあるのかもしれません。実証された例は聞かないけど。来る2007年という亥の年、大きな不幸が起こらずに、みんなが幸せでいられる年でありますように。