昭和の方がやっぱり入れ込みやすいんだよなー

最近、特に2000年を超えてから、「今って平成何年だっけ?」と悩むことが多い気がする。昭和の頃は、昭和xx年、というのが先にあって、「今って19・・・何年だっけ?」と悩むことが多かった気がするんだけど。頭の中の換算表として、昭和20年=1945年=終戦の年、というのもしっかり刷り込まれていて、そこから計算するのも楽にできた気がする。人によっては昭和60年=1985年=阪神大優勝の年、という記憶の仕方もあるようだが。

昨日、車に乗って何気なくNHKFMを聞いていたら、「アニソンアカデミー」という番組をやっていて、中川翔子さんが「昭和カッコイイー」とわめきながら、1985年放送のアニソンベスト10、なんてのをやっていた。私がアニメオタクからそろそろ卒業しようかな、という時期の作品ばっかりだったんだけど、どれを聞いても確かにかっこよくて、しょこたんほど燃えないまでもワクワクしてしまう。やっぱ昭和はいいなー。

今週末の6月8日(土)、王子駅前の北とぴあで、合唱団「麗鳴」の出演する演奏会があります。日本指揮者協会主催のJCDA合唱の祭典2013の中の一つの企画。80周年を迎えるNHK合唱コンクールの名曲を集めて、というコンサートです。

詳細こちら↓
http://www.jcda1963.jp/イベント情報/jcda合唱の祭典2013/

共演者を見ると錚々たる方々で、昨日の最終練習でもみんな割とビビッていて、中館先生から、「臆するな!」なんて檄が飛んでたりしたんだけど、上手な団体の演奏を聴くのも勉強だし、その中で自分たちなりの演奏をするのも勉強。精一杯歌えれば、と思っています。

やっている曲は、「僕が守る」(2011年のNコン高等学校の部の課題曲、銀色夏生:詩 上田真樹:作曲)と、「みぞれ」(昭和58年のNコン高等学校の部の課題曲、伊藤民枝:詩 野田暉行:作曲)の2曲。どちらもいい曲なんだけど、個人的には、「みぞれ」の方が表現しやすいんだよねー。いかにも昭和の名曲、という感じ。みぞれ、という自然現象に思春期の苦悩を重ね合わせるのは、高田三郎の「水のいのち」にも通じるし、風景描写のダイナミックさ、最後に訪れる解放感、どれをとってもまっすぐ直球で本当にカッコイイ。まさに王道、という感じがする。こんないい曲があったんだねー。知らなかった。

それに対して、「僕が守る」は、どこまでも解放されない感覚があって、なんだか消化不良な感じがする。さあっと歌い上げるところでも、どこかに鬱屈した和音が鳴っている。それが楽曲に深みを与えていて、心理描写にもつながっているんだけど、なんだかイラっとする。名曲ですよ。ところどころに心をわしづかみにされるような美しい旋律や和音があるし、特にこの曲が、東日本大震災の年の課題曲だった、と思うと、安易な気持ちで「僕が守る」と言い切ることへの躊躇とか、それでも、「僕が守りたい」と言い続ける、思い続けることの大切さ、とか、歌っていて感情暴走しそうになるところはいっぱいある。素晴らしい曲なんですけど、だから余計に歌う側としては表現が難しい。

中館先生からは「とにかく肉食系にならないで、一貫して草食系男子でやってください」と言われていて、オペラだのオペレッタだの肉しか食わない連中が作ったものをやり続けている身としては、それもつらい。歌いながら、「てめーはっきりしやがれコノヤロー」みたいな気分になってくる。段々会社で若い社員にいら立っている中間管理職みたいな気分になる。それって日常じゃん。

まっすぐ直球投げ込んで、それを疑いなく受け入れることができた昭和、という時代。阪神淡路大震災オウム事件を経て、東日本大震災ですべての価値を覆された、平成、という時代。それぞれの時代の苦悩する青年を、48歳のおっさんとしてどう演じるか、あと数日いろいろと考えてみたいと思います。