「美しい」ことってねぇ…

安倍晋三さんの記者会見をちらっと見てたんですけど、本当に生まれながらの政治家なんだなぁ、と思いました。記者の質問をきれいな抽象的な言葉ではぐらかす術に実に長けている、という感じ。政治家ってのは、コミットしない、約束しない、というのが仕事なんだよなぁ、というのを再認識させられた会見でした。小泉さんってのは、非常時の宰相だったっていうこともあるけど、「郵政民営化をする」「国債を減らす」とか、明確に具体的なアクションを示した、という意味では、やっぱり珍しい宰相だったね。

安倍さんが繰り返して言う「美しい国」という議論。彼の著作は読んでいないんですけど、「美しさ」という恐ろしく広い抽象的概念をスローガンに持ってくるところが、実に政治家っぽいと思う。何を言いたいのかそれだけじゃさっぱり分からん。分からんけど、何かしら醸し出している雰囲気のようなものがある。そういう雰囲気とか、情感のようなものに、日本人はとても弱い、ということをよく分かっている、という点で、非常に政治家らしい政治家だと思う。以前この日記にも書いたけど、谷川俊太郎さんが、「日本語というのは非常に詩的な言葉なんだけど、論理的な表現に向いていない」とおっしゃっていたことを思い出します。ロジカルな議論や演説が民衆には受けない、ということをよく分かっている政治家さんたちは、「スジの通った」お話が苦手なんだよなぁ、といつも思う。亀井静香さんの演説とか発言とか聞いていても、何言ってるのかさっぱり分からん。「国民のために」なんて連呼するなよ。あんたの言ってる「国民」ってのはどういう人たちなのか、さっぱり分からないんだから。

「美しさ」というのは何なのか、特に、「国の美しさ」というのは何なのか。例えば、明治維新後の外国人が、「日本は実に美しい国だ」と驚嘆したのは、江戸の封建社会の強固な倫理と、産業革命以前の前近代的な経済を前提とした、「知足」の観念が人々を律し、人々と自然の関係を律していた日本に対する印象です。みんなが与えられた階級の中で、それ以上は望まずに無理せず満足している。貧しいかもしれないけど、それはそれで極めて幸福で、かつ、道徳的にも充足された「美しい」世界。そういう意味で言えば、間断ない成長を前提とした資本主義という体制そのものが、さほど美しい社会を生み出さないものだったりするんじゃないか、と思う。経済成長著しい隣国の中国で、産業廃棄物による公害が問題になっている。「捨てるものにどうして金をかけねばならないのか」「廃棄物をそのまま捨てて罰金を払った方が安上がり」と平然と言う経営者がいる。倫理を失った資本主義がどれほど醜いかを示す一つのいい例だと思う。

安倍さんは、「美しさ」と同時に、「成長」ということも目標に掲げている。でも、経済的繁栄は、容易に、倫理なき利己主義の競争という「醜い」世界を生み出す。だからといって、「成長」と「美しさ」を両立するために、愛国心だの倫理観だの、なんていう話で上から「倫理」を強力に押し付け始めると、これはこれでまた、規律でガンジガラメにしばられた全体主義的な「醜い」社会を生み出す。北朝鮮の一糸乱れぬマスゲームは美しいですか?

こう考えると、安倍さんが、一種政治家流の目くらまし的に操っている抽象的な「美しい国」という言葉が、実はものすごく実現困難な目標であることに気付く。私自身、どうすれば豊かさと美しさを両立した社会が出来上がるのか、よく分からない。豊かさには必ず犠牲がつきもので、結果、豊かさを追求し続けることは必ず、犠牲の拡大、つまりは「調和」=「美しさ」の破壊につながると思うから。こういう実現困難な目標を立てておけば、できなかった時だって言い訳がきく、という意味でも、この「美しい国」という目標は優れて政治的な目標なのかもしれない…というのはうがちすぎな見方かな?