伊坂幸太郎「魔王」〜「愛と幻想のファシズム」に対するアンチテーゼ

相変わらず追いかけ続けている伊坂幸太郎さん、年末に、「魔王」グラスホッパー」を読了。今日は特に、「魔王」について書きたいと思います。

伊坂幸太郎さんの諸作品に流れる「倫理観」のようなもの、というのは、極私的なものではなくって、もう少し普遍性を持ったもの・・・という印象がありました。それは出世作の「オーデュポンの祈り」に描かれた異世界が、その世界の社会構造にまで踏み込んで描写されていたことを見てもそうだし、その他の作品の中にも随所に現われていた。とはいえ、「魔王」が、相当真っ直ぐに政治的な題材を取り上げていることにはちょっと驚く。それがこの作品自体の完成度を削いでいる部分もあると思うし、逆に高めている部分もある。矛盾した言い方だけど、受け取り手によってはその真っ直ぐな政治的メッセージに違和感を感じるかもしれない、というマイナスの要素と、取り上げられた政治的な状況(=ファシズムの足音)が、作品全体に与えている緊張感がもたらすプラスの影響の両方を感じた・・・というのが最初の印象。

この手の、政治的状況を一つの文学作品に昇華しようとする試み、というのはいろいろあるのだろうとは思うのですが、「魔王」を読んで真っ先に連想したのは、村上龍の「愛と幻想のファシズム」でした。ネット上でも同じような連想をした人は結構いるみたい。「魔王」の解説を読むと、ファシズム政治家として描かれる「犬養」とそれに扇動されていく大衆の描写に、当時の小泉政権下の日本の政治状況が反映されている、という記述があり、それは確かにその通りだと思う。だけど、「犬養」の持つ魔術的なカリスマ性は、「愛と幻想のファシズム」に描かれた「狩猟社」の「鈴原冬二」の描写により近い気がする。そう思って読むと、この伊坂さんの「魔王」という作品自体が、村上龍の「愛と幻想のファシズム」に対する一つのアンチテーゼとして書かれたのじゃないか、なんて、個人的に勝手に思ってしまう。それくらい、「犬養」と「鈴原」が重なって見えるんだね。

村上龍の「愛と幻想のファシズム」は、80年代のバブル日本の傲慢と閉塞感というアンビバレント時代精神を反映し、村上龍自身がある程度「本気で」ファシズムへの傾倒と賛美を表明している作品、という気がしています。もちろん、バブル崩壊というカタストロフを目前にして、時代への危機意識が書かせた、一種のディストピア小説としても読めるんですが、「新世紀エヴァンゲリオン」がこの作品へのオマージュを含んでいたり、サッカーの中田選手が、好きな本は「愛と幻想のファシズム」だ、とどこかで言っていたり、かなりの人がこのファシズム国家日本の世界制覇の物語に快哉を叫び、陶酔したのでは、という気がしている。それだけ悪魔的な魅力を持った作品。

それは、ファシズムを賛美するこの物語が、物語として極めて高い完成度と魅力を持っている、ということ。つまりは村上龍のこの作品自体が、「犬養」の演説のような、あるいはヒットラームッソリーニといったファシズムの扇動家たちの演説と同様、一種の催眠術的な魔力を持っていることに他ならない。そう思った時、伊坂幸太郎さんの「魔王」は、この村上龍が提示した悪魔的な物語に対する断固たるアンチテーゼとして私には見えてくる。

「愛と幻想のファシズム」が提示した物語の明確さ、カリカチュア的とも言える単純さに対して、「魔王」が提示する物語は、決して明確ではなく、結論もあいまいなまま。でも、物語としての魅力は決して劣っていないと思います。大衆が思考停止に陥る中で、必死に「考えろ」と叫び続ける兄。直感的に「違う」と信じ続け、反撃のための資金を着々と蓄える弟。この兄弟が感じる時代への違和感は、「愛と幻想のファシズム」で私が感じた違和感とぴったり重なる。伊坂さんが「魔王」を書くにあたって「愛と幻想のファシズム」を意識した、という話は聞いたことがないんだけど、ひょっとしたら正鵠を射ているかもしれない、なんて思います。伊坂さんの色んな作品が「健全」だなぁ、と思うのって、こういう部分なんだよね。