自分がエリートだと思うんだったら

最近の反安倍首相の論客たちが、「お前はバカか」的な人格否定発言を繰り返しているとか、一方の安部さん自身も、「まあいいじゃん、そういうの」と口走ってキレキャラ蓮舫さんに返り討ちにあうとか、安保法案関連の議論の中でもレベルの低いやりとりが結構取沙汰されています。マスコミ受けするから取り上げられているだけであって、実際にはもっと高レベルの議論が交わされているのかもしれないんだけどね。この手の話を聞くうちに、右か左か、という話は置いておいて、「エリート」と呼ばれる人たちの言動について思ったことを、ちょっと書いてみたい気になりました。

安倍さんの人格を否定する発言を繰り返す人たちを、いわゆる「戦後リベラル」みたいな形でカテゴリー分けする人もいますけど、「自分たちを知的エリートだと思っている、あるいは思いたい人々のうち、リベラルを標榜している人々」と言い換えてもいいかもしれない。朝日新聞というのはそういう人々のバイブルであり象徴でもある。その一方で、政治家家系の中でも最もサラブレッドの育ちで、割と自分の感情が正直に出てしまうの安部さんの言動を見ていると、「自分たちを政治エリートだと思っている、あるいは思いたい人々のうち、保守を標榜している人々」の典型のような気がするんだね。共通しているのは、「自分をエリートだと思っている、あるいはそう思いたい人々」である、ということ。

こういう人たちが陥りがちな罠、というか、こういう人たちの頭の中で恐らく常に鳴り響いている言葉が、「お前ら愚民」という言葉だと思う。「お前ら愚民どもの目を覚まさせてやる」「お前ら愚民どもを導けるのは俺しかいない」。双方に共有されているのは、自分には何もかもが見えている、分かっている、という強烈な自負・自信と、周りは何もわかっていない、という周囲に対する蔑視・選民意識。

議論を進める中で、自分の旗色が悪くなってくると、そういう人たちの「この愚民どもが」という本音がちらほらと出てくる。お互いの論理が平行線をたどり始めると、「お前らバカか」「お前みたいな愚劣なやつらが」と、相手の存在価値そのものを貶めることで、自分の知的レベルが勝っていることを議論の拠り所にしようとし始める。「お前はバカだ」と相手の言うことを否定する言葉はそのまま、「俺は賢い。だから俺の言うことは正しい」と言っているのと同じこと。そこにはロジックも謙虚さも存在しない。あるのは自己愛と傲慢さだけ。

一方で、相手がこちらの論理の綻びを追求し始めると、「そんなことどうでもいい」「本筋から離れている」と議論自体を拒否しようとする。「大事なことを理解しているのは自分だけ」「本筋を理解しているのは自分だけ」・・・ここにも「自分は賢い。だから俺の言うことを聞け」という自称エリートの傲慢が見える。(確かにどうでもいいことを突っ込み続けている野党もいるとは思うけどさ。)

エリートであるほどに、あるいは自分がエリートだと思うのであれば、最も求められるのは、謙虚さなんじゃないんですかね。周囲の状況や他の人の意見の中に、自分が知らなかったこと、自分が持っていない新たな視点を発見し、受け入れること。自分がいかに無知であるかに驚き続ける「無知の知」。ソクラテスの時代から、本当の賢人が持つべき姿勢というのは現代まで変わっていないし、そういう意識と、国を導かねばならない、という義務感を持っている人たちが、お互いの意見を尊重しながら、手続き論だの揚げ足取りではない本質的な議論をぶつけあい、真剣に未来を語りあう場、というのが、国政の場であるべきなんじゃないか、と思うんだけど。

とはいえ、知名度と人気とその時点での雰囲気や空気感で、なんとなく選ばれてしまった政治家たちにそれを期待するのは非常に難しい。サラリーマン化して自分の会社=省庁の利益しか考えない官僚にはかつてのエリートの面影はない。そして、そんな政治家たちや官僚を監視し、糾弾するのが自らの役割と心得るいわゆる「戦後リベラル」の知的エリートたちは、自分たちが生み出した民主党政権の無様な失政の結果、彼らの言う「愚民」たちから完全にそっぽを向かれてしまった。彼らが展開する、どこか苛立ちさえ感じる感情的な議論は、時に、クラスのみんなからシカトされて、「お前らなんで俺の言うこと聞いてくれないんだよぉ」と叫ぶ学級委員のヒステリックな悲鳴のようにさえ聞こえたりする。

プラトンの「哲人政治」のように、理想的な為政者が誕生する夢を語る気もないけれど、今の民主主義が急速に衆愚政治と化していく中で、どこかでもう一度、エリート教育の必要性について考えてもいい気がします。自分をエリートだと思うのなら、まず守るべき規範がある。国政の場にある人たちも、それを批判する人たちも、この国の「自称エリート」たちには、あまりにも品格がなさすぎると思う。