与えること、与えられること

世の中、雅子さま紀子さまの比較論でうるさいですね。話題にされているご当人方はほんとにいい迷惑だと思うし、大変失礼な話ではあるんですが、ちょっと、自分が関わっている舞台表現にも関係づけて、ここでも話題にしてみたいと思います。

雅子さまという方は、東京大学法学部を学部入学されて、外交官試験に合格して外務省に入省された…絵に描いたようなスーパーエリートです。こういう立場にいらっしゃった方、というのは、非常に容易に片山さつき先生になりがち。要するに、「あんたらみんなバカなのよ」「みんな私の言うとおりに動けばいいのよ」「なんであたしに命令するのよ」というオーラが出ちゃうんだよねぇ。

以前から、この日記では「東大生論」みたいなことをチラチラ書いたりしてるんですが、東大生、特に法学部生、というのが非常に陥りがちな罠。自分が学んだこと、自分が知っていることが、世界の全てであり、自分以上に正しい人はいない、と思い込む。自分が理解できないものや、自分よりも劣っている、と自分が判断するものからは、何一つ得ようとしないし、学ぼうとしない。自分は発信者であり、与える側であり、何かを周囲から受信したり、与えられたりする側ではない。なぜなら、自分はカンペキであり、足りないところは全くないから、外から今更吸収するべきものなんかない。「バカの壁」流に言えば、Y=aXという一次関数において、Xという外部刺激に対し、a=0状態になっているから、出力Y=0になってしまう。

こういうことを書くと、「東大法学部生だって、色んなことを実地に学んだりしようとする人はいるよ」と反論する人はいると思う。でも、その「実地」というのは、結構ヴァーチャルな机の上のシミュレーションであったり、あくまでオフィスの中でPCを見ながら仕事をするホワイトカラー的なビジネスの体験や、きれいな舞台の上に立ってのプレゼンテーションを指しているケースが多い気がするんです。新しい分野にぶつかった時、まずは色んな文献やら書物をひたすら読み込み、猛勉強をする。そうやって、紙の上の「情報」=ヴァーチャルな知識を詰め込む。でも、そういう「情報」からは、決して得られないものがあることに気付かない。

例えば、地震の被災者に慰問に行く、ということを、東大法学部出身のエリートは非常に嫌うと思います。火がくすぶっていたり、赤ん坊が泣き喚いているような現場の修羅場に足を踏み込むのは、あくまで現場の担当者であって、自分は中央官庁でそういう現場の担当者に指示を出す側の人間。人にこうしろ、ああしろ、ということは言うけれど、自分がその現場に行く、ということは考えもつかない。それはなぜか、と言えば、結局のところ、ヴァーチャルな知識=「情報」の上でしか勝負をしていないし、その「情報」を得たことで、全てを知ったつもりになってしまうからなんです。

でも、その地震の実態を知る、という意味でも、現場に行かないと「感じ取れない」ことというのはあるはずなんです。現実=「リアル」に触れないと、決して理解できないことがある。そして、被災者に慰問に行く、という「与える」行為を行うことで、その行為を行った人間自身が、ものすごく多くのものを「与えられる」のだ、ということ。現場、という外部刺激Xに対して心を開く。自分なりの定数「a」の値を持つ。それによって、自分自身から出てくる出力Yが、自分自身を変化させていく。「与える」ことで「与えられる」関係。そういう、周囲に対してどれだけ「開いた」心を持っているか、ということが、最も試されるのが、皇族という職業の方々なんじゃないか、と思うんですよね。

舞台の話に持っていくと、「自分の表現」を一方的に与えることしかできない表現者の方っていうのを時々見ます。実を言えば、私自身もよくそういう罠に陥ってしまう。表現者としては、僕を見て、僕を聞いて!というのが先行しがちなんですけど、実は最も大事なことは、「周りを見る」「周りを聞く」ということだったりするんです。「僕の言うことが正しいのに、みんなどうして僕の言うことを聞いてくれないの!」と喚く前に、まず周りの人を見回してみる。そしたら、そもそも周りの人が、自分の声を聞く体勢になっていなかったりする。ちゃんと聞いてくれる体勢になってもらうにはどうしたらいいか。まず、周りを見て、周りの人の声を聞いて、ちゃんと全員の視線をこちらに集めるタイミングをはからないといけない。すごく単純だけど、意外と難しいこと。

先日の日記で、クラリネットの杉山伸先生のご指導に感動したことを書きました。杉山先生の素晴らしい点は、自分の解釈や自分の音楽をアマチュア楽団である我々に「与える」ことで、自分自身も色んなことを吸収しよう、としている、受容する態度を常に変えないこと。上から見下ろす感じで、「そこはこうなんだよ」とは決して言わない。「ほら、こうやってみると、ほおら、楽しいでしょ」と言いながら、自分自身も楽しんでらっしゃるのが見える。

ガレリア・フィルの第一回演奏会を指揮してくださった、角田鋼亮先生も、そういう好奇心や、受容する力の非常に強い人でした。目の前にあるものをまず見る。聴こえてくる音をまず聞く。そういう「リアル」に自分を開いて、色んなものを受け入れることで、自分自身がどんどん成長していくタイプ。そういう意味で、本当に、これからが楽しみな指揮者だと思った。先日、蔵しっくこんさぁとでご一緒した、ヴァイオリンの漆原直美さんも、「なんでもやってやろう」という、好奇心と受容力のある方でした。これからが楽しみ、と思わせるのは、既にある程度完成されているのに、さらにどんどん吸収していこう、という姿勢が見えるからです。

秋篠宮ご夫妻がクローズアップされる中で、気になった言葉が二つ。一つは、皇太子さまの「人格否定」発言に対して、秋篠宮が、「公務と言うのは受身なものです」と発言された、というエピソード。もう一つは、ご夫妻が、生まれてくるお子さんの性別を事前に聞こうとしないで、「どんな状態の子供であっても、受け入れたい」と発言された、というエピソード。「受身」「受け入れる」…どちらの言葉も、周囲のありようを、ただ受け止めよう、とする、開かれた精神のありようを感じる気がします。紀子さまという方が、手話、という、「身体」=「リアル」に根ざしたコミュニケーション手法に対して興味をもってらっしゃる、というエピソードにも、「ヴァーチャル」=「情報」の処理で物事を理解しようとするのではなくって、「リアル」の中に踏み込んでいこうとする姿勢が感じられる。

もちろん、このご夫妻については、親王誕生に合わせて非常に理想化された論評が多くなっていて、それはそれで美化しすぎなんじゃないの、という気がするけどね。そもそも皇族という職業は、そんなに自己主張できる立場じゃないんだから、まぁうまく周りの言うこと聞いておいて、自分が楽しみたかったら、適当に要領よく上手くやればいいんだよ、という、次男坊らしい非常に賢い立ち回り方を見ることもできるけどさ。でも少なくとも、「私は指示する側で、指示される側じゃない」という東大法学部的なメンタリティよりは、よほど健全だと思う。皇室を改革したい、という気持ちがあったとしても、それが「私の言うことは正しいんだから、聞きなさい」「なんであんたらは、私の言うことが理解できないバカばっかりなの」ではなくって、まず周りが自分の声を聞く体勢になっているか、を見回さねば。もちろん、一切そういう声を聞こうとしない周囲にだって、ものすごく問題はあるんだけどね。

雅子さまが、そういう東大法学部的なメンタリティに陥っている、とは言いません。そもそも雅子さまのご心情自体が、今は表に見えていませんから。でも、同じ東大法学部出身者として言うなら、東大法学部的なメンタリティをかなぐり捨てるのは結構大変です。一度、本当に自分のよりどころになっていた自信とかプライドといったもの全てを否定して、全部真っ白にしてしまってから、また一から作り直す、くらいの精神的闘争が必要だったりする。雅子さまはもしかしたら、そういう闘争を必死に戦ってらっしゃるのかもしれない…まぁ、ただの私の想像だといいんですけどね。マスコミの容赦ないバッシングとかを見ていると、同じ東大法学部出身者(そりゃレベルは全然違う、あほー学部出身者だけどね)として、なんだか心が痛むんです。なんとかこのご家族が、ゆったりと開放された笑顔で日々を過ごされることを、ただお祈りしております。