「使えない東大生」

のっけから不愉快な話をしちゃいます。女房が時々覗いている、ある教育関係の掲示板に、ある地方出身の東大生を名乗る人が、「小学校の頃からそんなに教育熱心に、私立私立って頑張ってどうするの?ボクなんか、公立小学校・公立中学校・公立高校で東大に行ったよ。」という投稿をして、親御さんたちからボコボコにされたそうです。「東大にやるために私立に行かせようと思っているんじゃない」という親御さんに向かって、彼は、「東大生の僕の前で『東大に行かせるのが目的じゃない』というってのは、金持ちの前で、『お金なんかいらない』と言っているのに等しいじゃん」とうそぶいたそうな。東大生を名乗る別の大学生の投稿である可能性もあるとは思いますが、これ、多分ホンモノの東大生だと思います。情けない。

もう一つの「東大」を巡る話。今週の日経ビジネスの特集は、まさしく「教育」。その中で、子供の学力を向上させるための数々の試みが紹介されていました。こういう話の時に必ず出てくるのが、「和民」を経営する渡邉美樹社長が、学校経営に乗り出した話。この渡邉社長、確かに情熱的だし、言ってることも間違ってないことが多いんだけど、こと学校経営に関しては、根本的にトンチンカンなことを言うことがある。この日記でも以前紹介したのですが、「今まで16時に帰ってた教師が、ボクが経営者になって20時に帰るようになった」と自慢していたのもこの人。問われるのはアウトプットだけのはずなのに、勤務時間が長くなって、それだけ教師の仕事の効率が悪くなったことを自慢しているトンチンカンさ。

この人、学校経営において、360度評価や、能力主義など、色んな革新的なことを試みていて、それ自体は結構的を射ていると思う。でも、最終的に彼の経営する学校が掲げる目標は、「東大合格者を1学年あたり20名輩出する」ということだ、という記述があって、全部ずっこけてしまった。やっぱりトンチンカンだよ、この人。

結局、「東大」であったり、「勤務時間」であったり、教師の仕事の成果を計る指標が、ものすごく保守的なモノサシから脱却できていないんですね。教育革新を進める、といっている革新者の掲げる目標としては、あまりに貧弱。

「東大」にせよ、「勤務時間」にせよ、それは全て、学ぶための手段、教えるための手段に過ぎないんです。目的ではない。目標にするべきものじゃないんです。学力向上、ということを目標にするのであれば、偏差値をいくつ上げる、という数値目標だけを掲げればいいじゃないですか。「東大」という、「学ぶ場所」「学ぶ手段」を、学ぶことの目的にする理由がさっぱり理解できない。

「東大合格」を目的とする教育を経て製造された「東大生」の多くが、冒頭に紹介したような、下劣な選民意識にまみれた「使えない東大生」に堕していきます。それは、「東大」という場所が、学ぶための場所、として認識されているのではなくて、まさしく冒頭の東大生がうそぶいた通り、「お金」と同じ価値として認識されているから。でもね、世の東大生諸君、同じ東大出身者として言うけど、東大生くらい重たい看板はないんだぜ。いくら仕事が出来ても、いくら能力があっても、「東大生なんだから当たり前」と言われる。失敗したり、冒頭の東大生みたいに「お前ら愚民は」みたいな発言をしたら、「だから東大生はエリート意識に凝り固まって」と言われる。東大生ほど、「ノブレス・オブリッジ(Noblesse. Oblige、身分や知識に恵まれた人たちが身に着けねばならない義務感のこと)」という言葉をしっかり自覚しながら生きていかないといけない人々はいないんだよ。それで失敗を重ねてきたオレが言うんだから、間違いないよ。失敗するなよ。すみません。

実はもう一つ、とても恐ろしい構造があって、中央省庁という所は、そういう、「お前ら愚民らは」という選民発言が許容される「東大生のたまり場」なんですよ。東大生がこぞって中央省庁を目指すのは、そういう共通の価値観の中で非常に居心地がいいから、という理由もあると思う。もちろん、「ノブレス・オブリッジ」をきちんと身に着けて、本当に国家のため、国民のために身を粉にしている東大卒の官僚だって一杯います。でも、その一方で「ノブレス・オブリッジ」を持たない選民意識だけの「使えない東大生」達が、「ほんとに愚民の言うことは理解できないよ」とお互い慰め合いながら、仕事のための仕事に精を出している、という図も、中央省庁の中に存在しているんじゃないか、と思う。こんなことを言うと、「公務員試験に合格できなかった出来損ないの東大生が何を負け惜しみを言っている」と片付けられるだけなんだろうなぁ。片山さつきさんなんか、まさしくこういう選民思想の権化のような感じがする。もちろん、片山さつきさんの凄みは、そういう選民思想と、「ノブレス・オブリッジ」の自己鍛錬とがきっちり共存していて、誰が来ても私が叩ききってやる、という、実力に裏打ちされた自信にみなぎっていることだけどね。トモダチにはしたくないよね。

「東大生」であることを、「東大生だからこんなことをしても許されるんだ」という権利意識=選民意識だけにつなげてしまう「使えない東大生」たち。本当は、「東大生だから、こんなことをしなければならないんだ」という義務感も強く持たなければならない。その義務を背負うことは、ものすごく充実したやりがいのある人生を送ることでもあるけれど、ものすごく重たい自己鍛錬を自らに課すことでもある。選民意識を持ってもいいかもしれないが、その裏には必ず、強烈な義務感を抱えていなければならない、ということ。

それが自覚できず、自分を鍛錬することも怠り、ただ権利意識と無用のプライドだけを抱えて、周囲を不愉快にする「使えない東大生」たち。彼らを生む構造の一つが、「東大合格」を最終目的にした教育システムにある気がしてならない。必死になって勉強して東大に入ったんだから、オレは何をしても許されるんだ、という気になっちゃう。

では、「東大」に入る目的は、といえば、ひたすらに自分の知識や能力を高めること。ようするに、ひたすらに「学ぶ」ことであるべき。確かに、国家の教育予算のかなりの部分を投下されている「東京大学」という場所は、「学ぶ」という目的に対する最高の「手段」であり、環境であることは間違いない。では、何のために「学ぶ」のか。

教育議論の根底になければならないのは、「学ぶこと」の真の目的は何なのか、ということです。その議論がおざなりになったままで、「学力向上」「東大合格」と喚いている「教育改革者」たちが多い気がする。

何のために学ぶのか、といえば、実はものすごく古くから言われている、平凡な言葉に行き着いたりするんじゃないかな、と思っています。それは、「世のため人のため」と言う言葉です。できる限りたくさんの人を、貧困から救い、苦難から救い、苦悩から救い、できるだけ多くの人々に、幸福を届けるために、人は学ぶんです。そうやって人を幸福にすることは、幸福を与える人々にも、幸福感と充実感を与える行為である。人を幸せにする技術を開発するための「学び」。人の心を豊かにするための「学び」。人の命を救うための「学び」。「学び」の目的は、全部、「世のため人のため」に自分ができること、自分が捧げることのできる能力を育てること。そして、そういう経験を経て、自分自身が、なるべく多くの充実感・幸福感を得られるような人生を構築すること。

違う意見を持っている方も多いとは思いますが、教育の目的、「何のために学ぶのか」という議論を突き詰めていけば、「何が幸福なのか」という幸福論につながっていくはず。ひたすら「使えない東大生」や、それに類する我利我利型の人間を製造するよりも、「世のため人のため」に自分に何ができるのか、を考える人間を育てることが、実は一番大事なんじゃないかなぁ。