やってみてから言おうよ。

FACEBOOKで、友達がつぶやいていたんですが、自分の職場を掃除することを厭わないのは社会人として常識だとおもう、ってツイートしたら、ある人からすごい反発を受けてびっくりしたのだそうです。日本の掃除文化っていうのは世界に誇れる文化だと思っているので、日本人がそういうことを言う、というのはちょっと残念。日本では、3S(整理・整頓・清掃)というのが職場の基本、と教わるし、子供のころから、自分たちの教室の掃除は自分たちでやるように教育される。それって本当に素晴らしい文化で、結局、自分を含めた周囲の環境に対して、自分自身が責任を感じる、という態度を醸成するんだと思う。その態度は結局、仕事に対する態度にも影響している気がしていて、日本人の多くが、自分の近くに落ちてきたボールについても、知らん顔しないできちんと拾いに行く、という態度を保っているのは、この「掃除」に対する意識も関わっている気がする。大げさかしら。

短い米国勤務生活で驚いたのは、自分の近くに落ちてこようがなんだろうが、自分の仕事でない限り絶対に拾おうとしない米国人の業務態度。米国では、小学校でも自分の教室は自分たちで掃除しません。掃除は清掃会社の人がやること。ニューヨークの街中では、道に落ちているごみを拾うことは、ごみ清掃の仕事をしている人たちの仕事を奪うことになるからなるべく避けた方がいいよ、なんていう、冗談だか本気だかわからない助言を受けたことがあります。会社でも、机の周りをきれいにする責任は総務部門が負うべきであって、自分の机の周りが汚いのは、自分のせいじゃなくて総務部門がしっかり仕事をしないせいだ、なんてことを、米国人はいけしゃあしゃあといいます。まぁそういう人はやっぱり仕事ができないことが多くて、できる米国人はしっかり自分の周囲を整理整頓してたけどね。

そういう日本的な美徳、というか、周囲への気配りや、自分の身の回りの整理、という意識が薄れてきている・・・というのもさびしい話なんだけど、反発してくる人っていうのは、「自分ができていないことへの言い訳」を一生懸命しているんじゃないかな、という気もしないでもない。自分ができない、のではなくて、自分がやるべきことではないからやらない、とか、自分以外の力が働いていてできない、とかさ。

なんか色んなところでそういう「言い訳を並べる」人たちに出会う気がして、潔くないよなーと思う。思うんだけど、そういう人が結構みんなの支持を受けていたり、リーダーシップとっていたりするのを見ることがあって、なんだかすごく不思議な気持ちになることがある。菅直人とかその典型だけどさ。あれだけ、自分のせいじゃない、という言い訳を並べることで自己満足している政治家はいない、と思うんだけど、支持する人がいるから総理大臣にまでなっちゃったんだよね。ああいう人を支持する日本人自体が、言い訳する人に対してシンパシーを感じるような国民になっちゃったのかしらん。

自分が関わっている舞台表現の世界でも、結構そういうことは起こる。どうしても一部のフレーズがうまく歌えない言い訳をずっと並べ始めたりとか、舞台が締まらないのはのは演出や台本のせいだ、と言い出したりとか。言い訳言う前に、自分ができないことを素直に認めないと、向上もないんですがね。できないことを認めて初めて、できるようにするには何をしたらいいか、を必死になって考えるようになるはずだし、そうやって考える過程を経ないと、新しい技術は決して身につかない。まず、楽譜や台本に書いてあることをきちんとできるようになること。その次に、自分なりの表現や解釈が入ってくる余地がでてくる。それが当たり前だと思うのに、不思議とそういう言い訳を言うことが全員の総意になって、演出やら台本やら舞台裏やらに、参加者全員が文句を言い始める、なんてことが、舞台製作の過程では結構起こる。逆に文句を言わずに黙々とやっている人たちがスポイルされたりして、一体何なのだろうって思うことがたまにあります。声が大きい人に流されやすい日本人の習性のせいなのかもしれんが。

掃除をするのって当り前だよね、という意見に反発する人には、それなりの論拠があるんだろうし、何かしら別の観点から反発しているのかもしれない。あんまり単純に決めつけたくはないんだけど、まずは「やれるようになってからいろいろ言えば?」とは思うよね。やれない言い訳、できない言い訳、やらない言い訳を並べることから入る人が増えるっていうのは、間違いなく現状の停滞を招く。なんにせよ、やらない言い訳並べる前に、まずは、やってみてから言おうよ。