子供の携帯

娘がバス通学をしている関係で、やはり必要かな、と夫婦で相談し、買ってあげることにしました、子供用の携帯。娘は大喜びで、早速、パパとCメールのやりとりを楽しんでいます。そんなわけで、娘は喜んでいるのだけど、親としては結構複雑。

子供の適用力というのは怖いくらいで、携帯の色んなキーを自分でどんどん押していって、「こんなこともできるよ!」「あんなこともできる!」とはしゃいでいます。親が全然使いこなせない携帯のさまざまな機能をあっという間に了解してしまう。メールの入力だって、親よりも速いくらいです。だからこそ、不安も募るんだよねぇ。

一応、auジュニアケータイ、というヤツで、指定した相手としか通話はできないし、EメールもWEBも使えないように規制をかけてはいるのです。だから、みょーなURLや電話番号がついた勧誘メールが来ても大丈夫ではあるのだけど、ネットの世界にはどんな罠があるか分からんからなぁ。子供の好奇心を刺激するような色んなボタンや色んな機能が並んだ携帯。しかも、子供はそういうボタンを、物怖じも警戒もせずにポンポン押していくし、どんどん機能を理解していってしまう。これは見ていて怖いです。子供が無邪気に笑いながら、包丁ぶんぶん放り投げて器用に受け止めているのを見ているような気分。

先日女房と娘とで、幼稚園で仲良しだったお友達の家に、久しぶりに遊びに行ってみれば、全然一緒に遊ぼうとしないで、ひたすらDSをやっているんだって。親もそれを放置していて、「今度はこんなソフトを買ってあげようかどうしようか」と悩んでいる。でもどう考えたって健全じゃない。ずっとこの日記にも書いてますけど、身体というリアルを使った遊びからしか、リアルな世界を把握することはできないはずなのに、DSの画面の中のバーチャル世界に埋没してしまう。

女房はその姿を見ながら、「すごく簡単にこういうサイクルにはまってしまうんだなぁ」と、ちょっと寒気がしたそうな。要するに麻薬と一緒。ものすごく大きな快楽を与えてくれる刺激が目の前にあって、「みんなこれを楽しんでいるよ」と言われれば、簡単にそこにはまりこんでいくんです。DSに至っては、「これで脳の活性化ができます」なんていう謳い文句まで用意してるからね。養老さんじゃないけど、脳なんて、ヴァーチャルな情報を処理するただの計算機に過ぎないんだよ。計算機の処理能力いくら高めたって、リアルな人間、リアルな他者の心や思いを理解できない人間に価値なんかないんだけどねぇ。

昔、大学で法医学を勉強していた時、担当した教授が、「一応立場上、実験ということで、一度だけ麻薬を試したことがあるんですけどね、あんないいもんないですよ。ヒトを幸福な気分にさせるクスリですからね」と力説していて、何を言っとるんじゃ、と思ったことがあります。たしかに、麻薬で得られる快楽、幸福感はすごいものかもしれない。だからこそ、そこに全て依存してしまう人間が出てくるわけですけど。でも、禁断症状による人格破壊という悲惨な現実以上に問題なのは、麻薬に限らず、色んな中毒から得られる快楽が、リアル=現実=身体から逃避していることにあるんじゃないかな、と思います。

現実の中にだって、快楽はあり、幸福感はある。でもそれを得るためには、それなりの努力が必要。マラソンランナーズハイみたいなもので、快楽を得るためには、40キロ以上を走りぬく体力が必要。我々が舞台というライブ=リアルの中で、それなりの快楽や幸福感を得るためには、相応の達成感を得られるだけの事前の努力が必要なんです。そういう努力なしに得られるヴァーチャル世界での快楽は、手に入れるのが容易なだけに、すごく簡単に「中毒」という状態にはまり込んでしまう。

21世紀は、「中毒」との闘いの世紀である、という話を聞いたことがあります。薬物中毒、ゲーム中毒、メール中毒、携帯中毒、ネット中毒、買いもの中毒…色んな中毒がある。共通しているのは、リアル=現実=身体からの逃避です。ヴァーチャルな世界の中での快楽、刺激をひたすら追い求める姿勢。その快楽や刺激が大きいだけに、この中毒は本当に怖い。

そういうリスクと、連絡手段としてのメリットを天秤にかけた上で、今回、携帯購入の判断をしたわけですけど、子供の成長に合わせて、携帯との上手な付き合い方をきちんと教えていかないと怖いなぁ、と改めて思いました。子供は無邪気に、「しゅくだいおわったよ〜」なんてメールを送ってきてくれるし、パパはとっても嬉しいんだけどねぇ…