ナタリー・デセイ リサイタル〜ヴァーチャル談義〜

昨夜、行ってまいりました、ナタリー・デセイのリサイタル。演奏会の後、会場で一緒になったS弁護士夫妻と私と、3人で食事。例によって興奮状態で、時間を忘れて語り合う。帰宅後、一足先に、土曜日のリサイタルを聞いていた女房とも語り合う。そういう語り合いの中で、演奏会の感動の余韻や、様々な思いが、言葉という形になって具現化されていく。趣味を同じくする友人やパートナーに恵まれていることに、心から感謝する時間です。

実際には、S弁護士夫妻と私、私と女房、という形で、対話の時間軸や場所、その参加者は異なっているのですけど、一夜明けてみると、私の頭の中では、4人で、同じ場所で、演奏会についてくっちゃべっている「ヴァーチャルな4人の対話」というのが出来上がってしまいました。従い、演奏会の感想も、そういう対話風に構成してみたいと思います。下記に展開されるダイアログは、私の頭の中で展開されているもので、実際の対話とは異なるヴァーチャルなもの。実際の対話では語られなかった部分も沢山含んでいます。S弁護士夫妻や女房には、勝手なセリフを割り振ってしまって申し訳ない。最初にお詫びしておきます。
 

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S弁護士:前半はハラハラしたね。風邪気味で体調が悪い、というのは聞いていたんだけど、最初の一声を聞いたときから、大丈夫かな、大丈夫かな、とすごく緊張した。3年前の絶好調の時を知ってるだけになおさら。

私:確かに体調不良というのはあるみたいだね。O(女房)が聞きに行った回も、相当調子は悪かったみたいだし。

C子さん(S弁護士の奥さん):それでも、椿姫の演技はすごかったよね。前奏曲から既に舞台上に座っていて、じっくりヴィオレッタを自分の中で作りこんでいく。前奏曲が終わったら、おもむろに立ち上がっている。その時には既にヴィオレッタになっている。

私:歌い手としては、ああいうスタンバイの仕方っていうのはすごくリスキーだよね。自分が歌う直前まで、舞台袖で体調を整えておく、というのが普通。舞台上なんて咳一つできないし、空気は乾燥しているし。彼女自身のヴィオレッタに対する思い入れが、ものすごく強いんだなぁ、と思った。

C子さん:それがデセイの「スタンバイ」なんだと思う。そうやって自分の中で、演技として、役柄としてヴィオレッタを作っていく。舞台袖でコンディションを整える、という意味での「スタンバイ」ではなくて、舞台上で、しっかりヴィオレッタの役柄を作りこんでいく時間。

私:ゼフィレッリが、椿姫の前奏曲には、オペラの3幕の物語の全てが凝縮している・・・と言っていたよね。前奏曲の中に身を置くことで、ヴィオレッタの人生そのものを追体験することができる。前奏曲の最後の和音と「そはかの人か」の歌いだしには、かなり違和感があるんだけど、デセイの中では一貫している。そうやって作りこまれたヴィオレッタが、また聞いたことのないヴィオレッタなんだね。高級娼婦、というけれど、決して「高級」な感じがしない。むしろ、パリの貧民層から拾い上げられた少女・・・といったはかなさと人間臭さの充ちたヴィオレッタ。

女房:確かにそういうヴィオレッタ像というのは最近の流行の解釈。でもね、私は、ヴェルディというのはデセイにとってどうなんだろう・・・という印象が最後まで消えなかったなぁ。ヴェルディというのはね、とにかく声なんだよ。声の密度なの。みっしりした声で、朗々と歌って歌って、ひたすら歌う。演じるとか、自分自身の感情とか、そういうものを全部切り捨てて、ただひたすら音符の中に自分の声を満たす。そうやって朗々と歌えば歌うほど、ヴィオレッタがものすごく可哀想な女に見えてくる。それがヴェルディだと思うんだ。ガレリア座で「トロヴァトーレ」をやった時にも思ったのだけど、演じよう、という意識じゃなく、ひたすら歌うことで、逆にその役柄の悲劇性が際立ってくる。役者自身の演技の巧拙を超えて、まさしく音楽そのもので勝負していかないといけない。デセイのように、演技的なところから入ると、どこか違和感が残るんだね。ベルカントものには、割と演劇的解釈を受け入れる余地があって、デセイの得意な舞台表現からのアプローチが可能だったりする。でもヴェルディはそうはいかない。

私:それが前半の「ハラハラ感」につながったのかもしれないね。最近Oはよく、「歌いまわし、節回し」というのは、一度身につけば確実に再現できるものなんだ、と言うよね。そういう意味では、前半のヴェルディが「ハラハラドキドキ」だったのは、それがデセイにとってもチャレンジであり、まだ自分自身に「ヴェルディの歌いまわし」というのが身についていないからかもしれない。後半のルチアは、完全に自分の「歌いまわし」を身につけていて、安心して聞けたし、集中できた。

女房:ベルカントもののドニゼッティロッシーニなら、デセイ流のアプローチでも通用するんだよ。でもヴェルディは一筋縄ではいかない。

S弁護士:デセイの本分はやっぱり、フランスにある、ということなんだね。実際、「あ、3年前のデセイだ」と思ったのは、アンコールのマスネだった。

女房:そう、あれが一番よかったでしょう。それはまさに、デセイの中に、「歌いまわし」「節回し」がしっかり身についている曲、ということなんですよ。でも、デセイの身についているフランスものと、ヴェルディの間にはやっぱり大きな相違がある。

S弁護士:フランスものっていうのはどこか違う気がするよね。演劇的表現と音楽表現がとても近いところにある感覚。

私:独特の「節回し」「歌いまわし」があるよね。ガレリア座で今度やる「美しきエレーヌ」をミンコフスキが振ったDVDで、デセイの旦那さんのナウリさんがアガメムノンをやってるんだけど、歌なんだかセリフなんだか分からない歌いまわしをする。音符に音程がないんだね。×の音符でやたら歌う。ほとんどシャンソン

女房:でも、ヴェルディを×の音符でやたら歌われたら、これはちょっと違うだろう・・・という気がするよね。フランスものの持つ違和感っていうのは、最近すごく感じる。「美しきエレーヌ」の譜読みをしていると、ものすごく感じるね。カデンツァの部分とかで、「これは違うだろ」という音符が出てくる。普通そこで繰り返さないだろ、というところで、旋律が繰り返されたりする。短歌の「5・7・5・7・7」が、「4・6・6・8・7」になっているみたいな、不思議な違和感があるんだ。それがフランスものの「歌いまわし」「節回し」ということなのかもしれない。でも逆に、デセイヴェルディをやろう、とすると、我々がフランスものに感じる違和感と逆の違和感を感じているのかもしれないね。「このイタリア風の歌いまわしはどうしてもこなせないなぁ」みたいな。実は、ルネ・フレミングが歌った「そはかの人か」があって、これも無茶苦茶なんだよ。ものすごくジャジーに歌っていて、ほとんどゴスペルみたいに聞こえる。でも、ルネ・フレミングヴィオレッタは「分かる」気がするんだけど、デセイヴィオレッタには違和感があるんだなぁ。

私:それでもやっぱりヴェルディを歌いたい、というのがデセイの思いなんだろうね。オペラ初心者の私にとっては、デセイというのは初めて個人的に思い入れたオペラ歌手、という感じなんだよ。同時代の歌手として、その成長をじっくり見守っていきたい、というような。次は何にチャレンジしてくれるんだろう、というような。ネトレプコとかは、あんまりそういう感覚がないんだけど。

C子さん:ネトレプコは「スター」だからね。マリア・カラスみたいな。でもデセイのチャレンジっていうのはやっぱりとってもスリリング。椿姫も、確かにデセイの得意分野ではないのかもしれないのだけど、明確に、「私はこう歌う、こう表現する!」という主張がはっきりしている。誰のものでもない、デセイにしかできないヴィオレッタだよね。

S弁護士:東フィルもそれによく応えていたよね。東フィルってのはやっぱりオペラのオーケストラなんだなぁ、と思った。椿姫でアルフレートのパートをやっていたチェロの人が嬉しそうでね(笑)「僕はデセイとデュエットしてるんだぞー!」みたいな(笑)。

私:観客側がきちんと応えていたか、は疑問だけどね。ルチアのあのカデンツァの途中で、バサっと音をたてて物を落とした観客がいたのには愕然とした。息も身動きもできない時間だったはずなのに、本当に残念。

S弁護士:でもそれでも、デセイの緊張は切れなかったね。かえって、その物音の方に視線を飛ばすような演技をして、まるでそれが演出かのようにあの場面を演じ続けた。あの緊張感の持続力には感服。

私:3年前のリサイタルの時に、「ヴィオレッタを歌いたい」と言っていて、その後、実際に椿姫の舞台が予定されていたよね。それが、ノドの不調と手術で結局実現しなかった。来年のスケジュールには椿姫が予定されているらしいけど、どんなヴィオレッタになるのか。

女房:私の感覚だと、あの「そはかの人か」のままで、2幕のヴィオレッタを聞かされる、っていうのは一体どうなるんだろう、なんて思っちゃうんだけど。でも、歌い手として、一旦地位を確立した人が、自分のノドにメスを入れるっていうのは、本当に勇気がいると思う。その後もトップでい続けるっていうのは、本当にすごいことだよね。

私:3年前のデセイのリサイタルは、人間離れした感じがあったよね。このブログでも、「人間というより、鳥」という書き方をしたけど。

S弁護士:まさに、アスリートとしての歌い手、という感じがしたよね。あの演奏会を聞けた、ということは本当に神に感謝したい、稀有の経験だった。

私:今回は、「人間」という感じがしました。それは3年前よりもパフォーマンスの質が落ちた、ということでは決してなくて、今回もまた、稀有の経験をさせてもらった、という気持ちに代わりはない。常に挑戦を続ける一人のアスリートが、一歩一歩ステップを上がっていくプロセスに立ち会えた、という気持ち。ちょっと俗っぽい例えになるけど、リリーフ、抑えで一流になったピッチャーが、自分の肘を手術して先発完投ピッチャーに挑戦してる、その姿を見守っているっていう感じかなぁ・・・
 
・・・ダイアログはそのまま、歌手の生理の話、プーランクの話や三島由紀夫、あるいはギリシア神話からオッフェンバックの初期のオペレッタバロック・オペラまで、様々な話題に浮遊していくのですが、今日はここまでにしておきましょう。体調の悪い中で、最後のアンコールまで一切手を抜かずに歌いきったデセイさん。アンコールで四方のお客様全員に深々とお辞儀している小さな姿に、なんだか胸が熱くなりました。素晴らしい時間を、本当にありがとう。また是非日本に来てくださいね。