「バカの壁」〜リアルとヴァーチャル、身体と情報〜

この日記の中でも何度か言及しました「バカの壁」、昨日読了。読みながら、何度も激しく頷く。

養老先生という方は、例によって、「驚異の小宇宙 人体」の「脳」のシリーズの案内役のおじさん、として最初に認識しました。なんだか突っ放したような、面倒くさそうな語り口なんだけど、どこかで、普通の人とは違う突き抜けた視点を持っているような、仙人のような雰囲気を持ったヘンなおっさん、という認識。

その後、色んなエッセイや文章に触れて、この認識は更に深まる。「脳なんて、ただの計算機なんです」「思考なんてのは、脳が自己保存するために自分で出入力を自給自足するプロセスに過ぎない」…研究者ならではの即物的な突き放した物言いなんですけど、ニヒリズムには陥らない、どこかに温かさを残している不思議な語り口。

中でも激しく頷いたのは、リアルからヴァーチャルへ、現実から情報へ、という流れの中で、どんどん、「身体」という、常に変化しているリアルな自分自身から乖離していく現代人の滑稽さについて、繰り返し述べられているところ。私がこの日記でもしょっちゅう触れている、「身体性」というキーワードを巡る議論。

オウム真理教が、あれだけ知的な若者達を魅了したのは、彼らが、自分の「身体」を自覚することのできる教育を受けていなかったからだ、という見方は、ある意味ものすごく納得できた。「身体」から乖離した「情報」の暗記量と処理能力の高さを競うことを学問として、優等生の生き方を続けてきた若者が、麻原彰晃のヨガもどきの修行によって、自分の身体を作り変えるような「幻覚」を経験した時、そこに完全に依存してしまったのだ、という分析。

これって、私がものすごく「舞台」という「ライブ」=「リアル」=「身体」の表現にこだわっている一つの背景でもあるんです。「ライブ」=「リアル」=「身体」の対角線にあるのは、「再生可能」=「ヴァーチャル」=「情報」によって構成された世界。一番分かりやすいのは、TVゲームの世界です。何度も何度も、全く同じ状況を繰り返すことができる。そこでの死は、決して現実世界には影響を及ぼさない。「死」というコトバ=情報に過ぎない。そういうヴァーチャルな世界で生きることに、ものすごく危うさを感じてしまうんですよね。

「情報」の中のヴァーチャルな自分、不変の自分こそが「自分」である、という感覚に対して、養老先生は、「自分なんてのは日々変化しているもの」「個性なんてのは誰もが持っている遺伝情報の相違に過ぎない」とばっさり切り捨ててしまう。そのぶっ飛ばし方が実に爽快。「みんな違うのは当たり前なんだから、みんな同じになれ、というのもおかしいし、みんな違うことをしろ、というのもおかしい。みんな違うことを前提にしながら、相手の気持ちが理解できるようになれ、というのが本来あるべき」という養老先生の言葉には、ひたすらに激しく頷く。

昔、中学校受験のお勉強をシコシコ頑張っていた時、理科の参考書をひたすら覚えて、テストでいい点数を取ったことがありました。玄武岩花崗岩、砂岩、と、岩の切断面の拡大図があって、どれがどの岩でしょうってやつです。結晶が大きいものは花崗岩(長石・石英・黒雲母、なんて覚えたなぁ)。細かい粒が集まっているのが砂岩、玄武岩花崗岩と同じ火成岩だけど、冷却速度が玄武岩の方が速いので、結晶が小さい、なんて覚えたよなぁ。懐かしいなぁ。

でも、このテストでいい点数を取った後で、ふと、「そういえば、ホンモノの花崗岩、見たことないなぁ」って思った。参考書に書かれているヴァーチャルな情報や知識としての「花崗岩」と、自分の手にとって、触ってみる「花崗岩」は全然違うもののはず。ひたすら暗記する勉強や、机の上で情報を処理する能力だってもちろん必要なんですけど、その「知識」や「情報処理プロセス」が、ヴァーチャルな情報の世界での仮想現実に留まるか、それともリアルな現実につながるか、というのは、結構大事なポイントのような気がします。

同じようなことは文学史を勉強していた時にも思ったんだよねぇ。田山花袋の「蒲団」が、日本における自然主義的文学の第一作、なんてこと、受験生なら誰でも知ってる知識かもしれんけど、じゃあその「蒲団」を読んだことのある受験生はどれくらいいるかしらん。すくなくとも私は、大学に入るまで読んだことなかった。もちろん、文学史上重要と言われる作品を全部読め、なんて言わんけどさ。少なくともさわりの部分だけとか、その作品の雰囲気みたいなものは、きちんと自分の目で見て読んで、自分の「身体」で感じ取る必要がある気はする。文学作品の文体って、その時代のリアルな空気と密接につながっているわけだし。

電子メールで会話が終わってしまうような錯覚。ブログやSNSの中でのヴァーチャルな人間関係。そういう電脳世界の「情報」は、所詮ヴァーチャルに過ぎない。こんなことを言っている私自身も、よほど気をつけていないと、どんどんリアリズムを持ってくるヴァーチャル世界の情報に圧倒されそうになることがある。そんな気分をはねのける意味でも、舞台=ライブ=リアルの世界には、これからもこだわり続けたいと思っています。