リアルへの窓口としてのヴァーチャル

この日記で、特に最近、「ヴァーチャル世界に没入してしまう危険性」と、「リアル=身体=現実の重要性」について繰り返し書いています。じゃあ、そういうお前は、ヴァーチャル世界を敵視してるのかよ、と言われれば、そんなことは全然ない。そもそも、ヴァーチャル世界にこうやって独り言を綴っている、という行為自体、ヴァーチャルにはまっている一つの証拠だよね。

この日記を始める時に、女房と結構話をしたのだけど、「ブログ日記って、書いた途端に嘘になるよねぇ」と二人して言い合いました。公開された日記であり、誰が読むか分からない日記、という性格上、リスク管理の意味でも、日記には極力、リアルな自分と結びつく情報を記載しないようにしますよね。それだけではなく、自分の思いや行動を言葉にする、という作業自体が、リアルな自分を変貌させていってしまう。単純な美化も勿論ある。他人の発言を自分の発言のように紹介することもある。HP上で「なんて素敵なヒトなんだ」と思っていたヒトが、オフ会などで会ってみれば、「会わなきゃよかった」と後悔する、なんてのはよくある話。

でも、そもそもが、「言葉」=「情報」というものそのものが、リアルな自分から乖離してしまう性格を持っているのだ、というのが、先日読んだ養老先生の「バカの壁」にも書かれていました。「言葉」=「情報」は不変だけれど、リアルな自分は常に変貌しているもの。従い、言葉は、自分の外に放出された瞬間から、それを生み出した「自分自身」から遠ざかっていく。列車の窓から投げた色鮮やかな蜜柑が、あっという間に視界から消えていくように。そう思うと、芥川龍之介のあの「蜜柑」という短編は、言葉というもの、美というものの持つ永遠と、常に時間というレールの上を進んでいかねばならない人間という変化する存在の間の関係性を、極めて暗喩的に切り取っていたともいえるかもしれない。

「言葉」というもの自体が、生まれた瞬間から、リアル=現実=身体=動的な存在から乖離していく、ヴァーチャルな存在=静的な存在であるとするならば、そういった静的な存在で構成されている電脳世界において、「リアル=現実=身体」をどうやって表現していくのか。私個人的には、電脳世界でリアルを表現することなんてのは不可能だ、というのが結論で、ヴァーチャル世界においては、「だから皆さん、リアルを経験してくださいね!」と書き込み続けていくしかないと思っている。つまるところは、「リアル」の一つの究極の形である「ライブ」=舞台、という「経験」に対して、人々を誘うための玄関口としての「ヴァーチャル」。

ネットの最大の特性とメリットが、「検索」ということにある、ということが、ここ数年明確になってきて、各種の検索機能を充実させたサービスやビジネスが最近注目されていますよね。この「はてな」サービスだって、そもそもは検索サービスだったわけだし、YahooやGoogleなんてのはまさにその代表格。でも個人的には、電脳世界の中の「情報」=ヴァーチャルを検索し、発見した「知識」や電脳的刺激・快楽=ヴァーチャルをひたすらダウンロードする行為に対しては、価値も感じないし、むしろ危険性すら感じています。そのあたりが、最近の私の日記でよく出てくる、「ヴァーチャル中毒はこわいよー」という議論。

ヴァーチャルからリアルへ。その出口、玄関をきちんと確保しておくこと。リアルへの玄関口としてのヴァーチャルの活用方法。自分としては、そういう観点から、自分なりの電脳世界の活用方法を考えていきたいし、つねにリアルの部分に軸足を置いて、ヴァーチャル世界を眺めていなければ、と思っています。これが段々難しくなっているような気もするんだけどねぇ。