アメリカの石鹸と日本のひきこもり文化について

なんか時々頭の中でとんでもなく論理が飛躍することがあって、今夜風呂に入っていて、石鹸のにおいを嗅いで、ふと、「日本って、ひきこもり文化を生みやすい国なのかもなぁ」と思う。なんのことやら、と思われるでしょうが、自分なりに飛躍のあとをたどってみよう。ちゃんとたどれるかしら。自信ないなぁ。

さて、論理の出発点になった我が家の石鹸。近所のA&P Marketで買ったんですけど、これがケッタイな匂いがする。どこかで嗅いだ匂いだなぁ、と思って、よく考えると、あら、メロンの匂いだ、と。

で、日本のかき氷にかかっている緑色のメロンシロップの匂いを想像しないで下さい。本物のメロンを切った時の、あの妙にキュウリっぽい青臭い匂いがそのまま再現されている感じ。えらくリアルなメロンなのだね。

そう思うと、今日、ターゲットの中のカフェで買ったフルーツスムージの「レモネード」というのが、これまたリアルにレモンの味がする。別に生果汁入り、ということではないと思うのだけど、とにかくしっかりレモンの酸味がして甘くない。そういえば、とさらに思うのは、以前スーパーで買ったニンジンジュース。日本の野菜ジュースみたいなものか、と思って買ったら、これが恐ろしく生のニンジンの味が強い。正直かなりマズイ。

さらに発想は連なって、アメリカのアニメとかマンガにしても、妙にリアルで生々しい感じがするよなぁ、と思う。先日の日記で、日本の道路の滑らかさに驚嘆したことを書いたけど、アメリカの道は、デコボコはデコボコでしょうがないじゃん、みたいな感じで、逆に言うとしっかり「道を走っている」というリアリティを感じます。

そこでふと、先日日経新聞に出ていた内館牧子さんのインタビュー記事に連想は飛ぶ。その記事の中で、内館さんは、「日本文化には、『見立て』の伝統があるんです」と述べてらっしゃった。

落語家が扇子を箸に見立てる。白い砂を海に、岩を島に見立てる古寺の庭。内館さんによれば、相撲の土俵の四隅にある房はもともと柱だったものを、房を柱と見立てている、とのことで、「結界を示していてきわめて強固な防壁なのです」とのこと。見立ての文化は言葉にも及んでいる、というのが内館さんの分析で、「花火」という言葉は、空に咲く火を花に「見立てた」言葉ですよね、とおっしゃる。同じ花火も、英語だと、「Fire works」。「火の仕事」って、そのまんまですがな。

「そのまんま」=「リアル」であることを嫌い、何かしら記号化・暗号化してその記号・暗号の裏にリアルを隠す、あるいはそのリアルを「想像」させる意識の能動性に価値を置く日本の文化。「代用品」ということではなくて、あくまで「見立て」。これが単なる代用品になってしまうと文化ではなくなってしまう、と、内館さんの論は続くのだけど、それはまた別の話。

で、リアルをそのままリアルとして受け止めるアメリカ的文化と比較した時に、日本の「見立て」=リアルを嫌う精神構造、というのが、ヴァーチャルの中に逃げ込む引きこもりの文化にもつながっているんじゃないかしら、と思いつく。ニンジンの味をなるべく隠して、洗練されたおいしい野菜ジュースに仕上げる。イチゴシロップ、メロンシロップ、と言いながら、それはすでにリアルなイチゴやメロンの味や香りからは離れてしまっていて、一つの「記号」と化している。日本の漫画の美少女達の巨大な目は、すでにリアルな人間の描写ではなくて、目という象徴の記号化された姿に過ぎない。

そうやって、生のリアリティを極力記号化した究極の姿として、ネットのバーチャルな世界があるとしたら、リアルを嫌う日本人的精神構造にこれほどフィットする理想郷はない。キュウリ臭い石鹸で体を洗いながら、そんなところまで連想は飛んで行きました。でも米国がリアル重視の国か、というとそんなこともなくて、上記の議論は非常に一面的な議論なんですけどね。米国の人工甘味料の気持ち悪くなるほどの甘さとか、人工物の記号化、という点では日本なんかよりもよっぽど無茶苦茶だったりするし、米国人のネットへの引きこもりぶりも日本人に負けていませんし。ということで、割と浅はかな文化論は一夜の石鹸の泡と消えていくのであります。