「情報」を送るということ

携帯アドレスを変えました。迷惑メールの着信が止まらず、我慢できなくなった結果。一番高レベルのフィルタリングをかけて、着信してくるメールアドレスを片っ端から着信拒否リストに登録しているにも関わらず、日に5〜6通くらい、「パチスロで稼ぎませんか?」「体だけで稼げます」などなどの同工異曲のメールがぼこぼこぼこぼこ送られてくる。で、アドレスを変えた、という話をしたら、

「日に5〜6通なら可愛い方じゃん、私は日に20通以上来たよ」

という方もいて、よく我慢できるな、と別のことで感心。

色んな意味で、情報を発信する主体が分散している。インターネットのブログもそうなんだろうけど、匿名の無数の主体が自己の良心だけに従って発信する大量のゴミ情報の中から、自分に有益な、信頼性に足る情報だけをピックアップすることの、なんと困難なことか。

マスメディアが情報発信の主役の座を脅かされているわけだけど、マスコミ、とか、マスメディア、と言う言葉に立ち返ってみると、結構面白いよね。マス=大衆を対象とした、1対多のコミュニケーション=マスコミ。その言葉自体に、情報の発信手段を独占し、受身の大衆に向かって一方的に情報を発信する、一種の情報支配階級の特権的地位が明確に表れている。で、その情報支配のヒエラルキーが、情報被支配階級であった大衆=マス自身が発信する大量の情報によって瀕死の状況にある。マスコミがマスによって破壊されていく皮肉。

もちろん、迷惑メール以外にも、ネット上のゴミ情報の氾濫には本当に辟易させられるのだけど、一方で、自分自身の特権を守るための規制や固定観念によって自縛の罠に陥っているマスコミを支持する気にもなれない。マスコミの発信する情報は、あらゆる思想信条から不即不離のポジションを保とうとするが故に、極めて歪んだレンズで社会を見ているようなグロテスクな情報に容易に変貌していく。それよりは、圧倒的多数の声が渦巻くカオスのようなネット上の情報の方が、かえってリアルな世界を描写していることが多いと思ってしまうのは、私だけではないはず。

・・・なんてことをつらつら書いているのは、迷惑メールの件もそうなんですけど、今朝方見たNHKの朝の情報コーナー「まちかど情報室」を見ていて、何とも不思議な気分になったから。アナウンサーが、「携帯音楽プレーヤー」と言いながら、画面はiPodを大写しにしている。他にも、「高級外国車」といいながら大写しになるBMWの文字とか、大手電気メーカーといいながら大写しになるPanasonicの文字とかを見ていると、頭の中で?が激しく踊り狂うわけです。

なんでNHKが企業名を口にできないか、といえば、公共放送として放送法で禁じられているから、ということらしいのだけど、では企業の看板やロゴを大写しにするのはいいのかよ、といえば、それは客観的に撮影された映像だからいい、ということなんですかね。よく分からない。単純に、視覚障害者の方々に対する情報差別じゃないか、と思うんですが、そういう議論はないのだろうか?そんな話をすると、「じゃあやっぱり全部モザイクにしてしまえ」なんてわけの分からん話になっちゃうのかなぁ。